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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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リチャード三世の戴冠 3

リチャード三世の戴冠 1 > 戴冠 2 >  戴冠3 ]



1483年6月に入りまもなく、動きが慌しくなる。



グロースター公リチャードは、6月10日にヨーク市長に、翌11日には、ノーサンバランド伯、ネヴィル卿レイフ(後の3代ウェストモーランド伯)他、北部の貴族達に、援護の軍を求める書簡を記している。そして11日、これらの書簡と共に、5月に逮捕したリヴァーズ伯らの処刑委任状を使者(サー・リチャード・ラトクリフ)に持たせて北部に送ったが、これは国王評議会(Council)の反対を無視して行われた。
なお、評議会は、5月下旬頃から、グロースター公を支持する派と、公に批判的な派に分かれ、別々に会合を行っていたようだ。



6月13日、ロンドン塔での評議会において、ヘイスティングズ卿ヨーク大司教トマス・ロザラムイリー司教ジョン・モートン、そして、スタンリー卿が、グロースター公の殺害を企んだとして逮捕される。ヘイスティングズ卿は首謀者として当日処刑された注1が、ヨーク大司教、イリー司教は軟禁されるにとどまり、スタンリー卿はまもなく釈放された。





16日、エドワード五世の戴冠式が6月22日から11月9日に延期される。6月25日に予定されていた議会の開会も延期された。



同じく16日、ヨーク公リチャード(エドワード五世の弟)が、ウェストミンスター・アベイの庇護所から、エドワード五世の居住するロンドン塔に移る。
評議会の同意を得て、ハワード卿率いる軍を伴ったカンタベリー大司教が、庇護所にいる王太后と交渉を行った。これにより、エドワード五世と、ヨーク公の兄弟は、叔父であり摂政であるグロースター公の監督下におかれることとなった。



グロースター公の一連の行動は、リチャードによる王位簒奪説では、簒奪計画を進めたということになる。一方、リチャード擁護の立場からは、自身を排斥しようとする陰謀を防ぎ、新国王と王位継承者(ヨーク公)を保護し、治安の維持を図ったということになる。


これより先、6月9日に、評議会において重大な話が暴露された、という説が広く知られている(そして、その真偽が議論されている)。
エドワード四世と"王妃"エリザベス・ウッドヴィルとの結婚が無効であり、子供達は庶子であるというのだ。バースおよびウェルズの司教ロバート・スティリントン(当時、評議会の顧問官だった)による告白と言われているが、その記録自体は残っておらず、正確なところははっきりしない。



これは、エドワード四世が結婚前に他の女性(初代シュルーズベリ伯息女エレノア・バトラー=エレノア・トールボット)と婚約していた、という話である。それが本当ならば、当時婚約には結婚と同等の法的拘束力があったため、エドワード四世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚は無効となる。よって、子供達は(エドワード五世を含め)庶子となり、王位継承権がなくなってしまう。極めて重大な問題であった。
この話は、後に公の場に持ち出されることとなる。



22日、ロンドン市長(Lord Mayor)の弟で聖職者(神学博士)のレイフ・ショウが、ポールズ・クロス(セント・ポール大聖堂前)において、市民の前で説教を行った。
エドワード4世の子供達は非嫡出であり、更に、エドワード4世自身と弟のクラレンス公も非嫡出であるという内容で、グロースター公が3代ヨーク公(エドワード四世・クラレンス公・グロースター公の父)の唯一の正統な継承者であると訴えるものだった、と伝えられる。注2



後者(エドワード四世とクラレンス公の非嫡出)に関しては、グロースター公が本当にそのような説教をさせたのか、また、ショウ博士が本当にそのような説教を行ったのか、疑問視する意見もある。これは、エドワード四世とクラレンス公が、ヨーク公未亡人の不義の子であると非難するものであり、グロースター公自身の母后の名誉を汚すものであった。
当時、ヨーク公未亡人は、ヨーク家のロンドンの居城であるベイナード城で暮らしており、グロースター公もそこに滞在していた。そのような状況で、実母の名誉を汚し、市民の反感を買うと容易に予想されるような説教を行わせるであろうか、誤った噂話が記録されたか、敵側のプロパガンダではないのか、という意見である。



24日、バッキンガム公が、ギルドホールで開かれたロンドン市長と市参事会員の会合で演説を行った。エドワード四世の結婚の不当性と王子達の非嫡出について、また、クラレンス公の遺児は父親の大逆罪のため継承権を失っていることを語り、グロースター公の王位継承の正統性を訴えた。
翌25日、バッキンガム公は、貴族、ジェントリの集会で同様の演説を行った。



25日、北部で徴集された4,000名の軍が南進を開始する。
同日、リヴァーズ伯、サー・リチャード・グレイ、トマス・ヴォーン、リチャード・ホウトが、ポンテフラクト城で処刑される。




26日、議員達(開催予定だった議会に出席するためロンドンに集まっていた)はグロースター公に請願 Petition を提出。これを受け、グロースター公リチャードは、ベイナード城で国王即位を宣言する。この時の請願の内容は、翌年1月に開催された議会で、「ティトゥルス・レギウス Titulus Regius (王位継承法, 王位承認法)」として成文化されることになる。



7月6日、ウェストミンスター・アベイで、リチャード三世の戴冠式が挙行された。ノーサンバランド伯を総指揮官とする北部軍は数日前にロンドンに入り、戴冠式の警護を務めた。
戴冠式には、35名の貴族と70名以上の騎士が参列した。当時、貴族は85名おり、欠席者が多いように見えるが、エドワード四世治世に私権剥脱されたランカスター派貴族と、ウェストミンスター・アベイの庇護所に逃げ込んだドーセット侯トマス・グレイを除くと、欠席したのは、幼児、老人、病人であり、事実上すべての貴族が列席したと言って良かった。



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リチャード三世の戴冠 2

リチャード三世の戴冠 1 > 戴冠 2 > 戴冠 3



1483年5月4日朝、新国王エドワード五世は、グロースター公リチャードバッキンガム公と共に、ロンドンに到着した。二人の公爵は大軍の同行を避け、随員のうち500名だけを市内に伴った。一行は、市長(Lord Mayor)、市参事会員(aldermen)、および、数千人の市民の出迎えを受け、セント・ポール大聖堂まで行進した。



グロースター公とバッキンガム公は、辺境の所領統治のため常時出席はしないものの、国王評議会の有力な顧問官であった。この後開かれた評議会には彼らも出席することとなる。王太后の親族は除かれていた(逮捕や逃亡のため)。王太后に国璽を渡したヨーク大司教トマス・ロザラムは、大法官を解任されたが、顧問官の職は解かれなかった。




評議会では、まず、以下のことが審議・承認された。



  • エドワード五世の居住地はロンドン塔とする(5月10日決定)。ロンドン塔は王家の重要な居城のひとつであり、ロンドン随一の堅固な砦だった。


  • エドワード五世の戴冠式は6月22日とする。


  • グロースター公リチャードを正式に摂政(保護卿, Lord Protector)に任命する。摂政の期間は、当初、エドワード五世の戴冠式まで(1ヶ月と10日あまり)とされた。


その後まもなく、次のことが決定された。



  • 6月25日に議会を開催する(5月13日に召集令状が出された)。


  • グロースター公の摂政期間を、エドワード五世が成年に達するまでに延長する。


国事行為および令状・勅許状の発布は、エドワード五世が未成年の間は、グロースター公の助言に基づき国王の名で行われることとなった。高官の任命権はグロースター公が掌握し、公の支持者や公に好意的な人物が、宮廷・政府・地方統治の重要官職に配置された。その中には、バッキンガム公、ノーサンバランド伯、ハワード卿(後にノーフォーク公)、ヘイスティングズ卿らが含まれていた。



グロースター公と評議会は、エドワード五世の戴冠式の準備を進めた。6月5日には、バス騎士 Knight of the Bath に任じられるジェントリ40名に召集状が出されている(国王戴冠式に叙任する慣例だった)。



しかし、戴冠式は、スムーズには行われなかった。



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リチャード三世の戴冠~1483年7月6日~ 1

[ リチャード三世の戴冠 1 > 戴冠 2 > 戴冠 3



1483年7月6日、リチャード三世はウェストミンスター・アベイで戴冠式を行った。



リチャード三世の即位が王位簒奪だったのか否かは、二人の王子達の殺害疑惑と同様、(一部で)激しく議論されることの多い問題である。王子達の殺害疑惑とも密接に関わりあっている。



とりあえず、事実関係を整理しておきたい。




1483年4月9日、エドワード四世は、ロンドンのウェストミンスター宮殿で病死した。
エドワード四世には二人の息子が残されていた。長男の王太子エドワード(12歳)と、次男のヨーク公リチャード(9歳)である。三男のジョージは2歳で亡くなっている。



弟王子のヨーク公は両親や姉妹達と共にロンドンにいたが、王太子は当時、ウェールズのラドロウ城で、母方の叔父(エドワード四世妃エリザベス・ウッドヴィルの長弟)であるリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルの監督下に教育を受けていた。
国王崩御の知らせがラドロウに届いたのは4月14日である。23日に、新国王・エドワード五世はロンドンに出発する。リヴァーズ伯が2,000名の軍を率いて同行した。



これに先立ち、4月11日、国王評議会(Council)は、王太子の国王即位宣言(エドワード五世)を行った。評議会により、戴冠式の早期挙行(5月4日)が決定され、更に、グロースター公リチャードの参列なしも承認された。



エドワード四世の遺言では、グロースター公リチャードが未成年の新国王の摂政(保護卿, Lord Protector)に指名されていたが、評議会は、摂政をおかずに国家統治を評議会自身に委ねる決定を下した。
この時点で、エドワード四世妃(王太后)の親族であるウッドヴィル家の派閥が、評議会の中心を占めていた。



一方、グロースター公リチャードは、北部の所領にいた。彼の元に知らせが届いたのは、ラドロウと大きくは違わないと思われるが、いつかは分からない。
国王崩御の正式な知らせはリチャードの元に届けられず、ヘイスティングズ卿(王室府式部長官、エドワード四世の側近)が個人的に書簡を送った、とも言われるが、ともかく、リチャードがまず行ったのは、鎮魂ミサの準備だった。



リチャードは、北部の貴族とジェントリを召集し、ヨークミンスターでエドワード四世の鎮魂ミサを行い、同時に、新国王・エドワード五世への忠誠を誓った。
その後、リチャードは、600名の軍と共にヨークを出立する。4月20日以後まもなくのこととされている。



4月29日には、両者ともにノーサンプトン近郊に到着しており、リチャードとリヴァーズ伯との会見が行われた(その前に、バッキンガム公が300名の騎兵を連れてリチャードに合流している)。
そして、翌30日早朝、リチャードは、リヴァーズ伯を陰謀の廉で逮捕し、更に、エドワード五世滞在中のストーニー・ストラトフォードで、新国王一行のうち3名を逮捕した。その中には、王太后の前夫との間の次男(新国王の異父兄)であるサー・リチャード・グレイも含まれていた(彼らは後に処刑される)。



リチャードはエドワード五世を自らの保護下におき、この後、新国王に同行してロンドンへ向かうことになる。



リヴァーズ伯達の逮捕の知らせは、4月30日夜から翌5月1日未明のうちにロンドンに伝わった。リチャード自身も、ロンドンのヘイスティングズ卿に知らせを送っている。



王太后エリザベス・ウッドヴィルは、次男のヨーク公リチャードを含む子供達と共に、ウェストミンスター・アベイの庇護所に逃げ込んだ。この日、王太后は、ヨーク大司教にして大法官のトマス・ロザラム(王太后=ウッドヴィル派だった)から国璽を受け取った。



ロンドンにいた王妃の親族は、王太后の名の下、軍の徴集を図った。
ドーセット侯トマス・グレイ(王太后の前夫との間の長男)はロンドン塔を掌握しており、テムズ河国王艦隊司令長官のサー・エドワード・ウッドヴィル(王太后の弟)は、軍艦の集結を企てた。



これに対抗して、ヘイスティングズ卿も軍を集めた。
このため、ロンドン市内では様々な噂が飛び交い、緊迫した状態となった。



ヘイスティングズ卿は、グロースター公リチャードからの書簡を貴族達に紹介し、グロースター公を支持するよう説得する。書簡には、新国王への忠誠の誓いと、リヴァーズ伯達の逮捕は自らを護るためである、との旨、書かれていた。



5月2日、ヘイスティングズ卿からロンドンの状況について知らせを受けたリチャードは、すぐにロンドン市長に書簡を出し、5月4日にエドワード五世をロンドンに帰還させると宣言した。書簡の内容は、先にヘイスティングズ卿に送ったものと同様で、市民達の前で朗読された。



これにより、ウッドヴィル派の軍事行動は不可能となり、5月4日の朝、エドワード五世は、グロースター公とバッキンガム公と共に、ロンドンに到着した。当初、戴冠式の予定されていた日である。結局、大きな混乱なく、ロンドン入場が行われた。



ドーセット侯とソールスベリィ司教ライオネル・ウッドヴィル(王太后の弟)は、ウェストミンスター・アベイの庇護所に逃げ込み、サー・エドワード・ウッドヴィルは逃亡した。



この後、リチャードは正式に摂政に任命され、エドワード五世の戴冠式は6月22日に延期された。リチャードと評議会は戴冠式の準備を進めたが、戴冠式は更に延期された。結局、エドワード五世の戴冠式は行われることはなく、7月6日に挙行された戴冠式は、リチャード三世のものであった。



白い猪亭

秋津羽

Author:秋津羽

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