このサイトは

英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

妻の権利によって jure uxoris 【覚書】

中世ヨーロッパにおいては、結婚により、妻の財産上の諸権利は夫に譲り渡された(コモン・ローによる)。



  • 妻の動産は、夫のものとなった。


  • 不動産(領地等)、称号・爵位に関しては、夫が妻の権利を行使することとなった。これはラテン語で "jure uxoris" と呼ばれる。英語では "in right of a wife (妻の権利によって)" と訳される。

    • 不動産(領地等)は夫の所有にはならなかったが、管理権は夫に移転した。夫は不動産を自由に処分することができ、それから生ずる地代・収益・売却代金は夫のものとなった。

    • 爵位を持つ女性の夫は、妻の爵位を用いることができるようになった。
      例えば、ナイトの男性が女性伯爵と結婚すると、男性は伯爵となった
      (現在は、妻の爵位が夫より上でも、夫の爵位は上がらない)。





Copyright(C)since2005 白い猪亭


スポンサーサイト

寡婦産と寡婦給与 【覚書】

  • 寡婦産 dower : 夫の死後に妻に分与される財産。婚姻時に指定された。イングランドでは夫の土地の1/3が妻に分与されるのが一般的だった。コモン・ローに基づく制度。


  • 寡婦給与/寡婦給与産 jointure : 結婚に際し、夫の一族から妻に提供し、夫妻の存命中は共同名義とし、一方の死後は生き残った方が引き継ぐこととした土地(もしくは土地からの収益)。中世後期に生まれた制度。

寡婦産や寡婦給与にあてられた財産は、対象となる女性の存命中のみ彼女の所有となり、他者への遺贈はできなかった。対象となる女性が死亡すると、その財産は相続人のものとなった。





Copyright(C)since2005 白い猪亭


秘密結婚 【覚書】

秘密結婚 Clandestine Marriage



教会法 Canon law の定める結婚の手続きのうち、結婚の公開性に関わる部分を欠く結婚。無効や非合法という意味ではなく、コモン・ロー Common law では問題とされなかった。



教会法においては、結婚式に先立ち、教会において婚姻予告(banns of matrimony, banns of marriage)を3回することが必要とされていた。権限のある聖職者から婚姻許可証(licence of marriage)を獲得した場合は、婚姻予告は免除された。



エドワード四世とエリザベス・ウッドヴィルは1464年に秘密結婚をした。5月1日という説が一般的である。エリザベスの母ジャクェッタ・オブ・ルクセンブルクと司祭の他は、2、3人の立会人がいただけだと伝えられる。



ヘンリー五世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロアとオーウェン・テューダーが、1428年から1432年の間に(もしくは1429年頃に)秘密結婚をしたという説があるが、「当時の」証拠はない。





Copyright(C)since2005 白い猪亭


親等計算法および近親間の婚姻禁止 【覚書】

中世後期ヨーロッパでの教会法(カノン法)による親等の数え方(親等計算法)は、現在と異なる。以下、覚書。



中世盛期に、親等の数え方に大きな変化が起こった。829年のパリ教会会議において、それ以前のローマ式の計算法(現在の日本の親等の数え方とほぼ同じ)に代わり、ゲルマン式の計算法が採用されたのである。
ゲルマン式の方法では、共通の祖先にたどり着くまでの世代数を数える。



同時にこの会議では、(ゲルマン式での)7親等以内の者の婚姻が禁止された。これはローマ式の14親等に当たる。これにより、同一身分内で結婚するために、多くの人々が禁止事項に背かざるを得なくなった。



そのため、1215年のラテラノの教会会議において、血族関係と合法的姻戚関係による結婚禁止の範囲は4親等までとなった。4親等にある者同士の結婚の禁止ということは、共通の高祖父母(祖父母の祖父母)をもつ者同士を対象とする。ローマ式では8親等に当たる。

この際、「非合法の姻戚関係による結婚禁止の範囲は2親等まで」となったとのことだが、「非合法の姻戚関係」とは何ぞや。正式に結婚していない、秘密結婚ということか?あ、非嫡出の場合か?



この他、霊的親族関係も婚姻の支障となった。霊的親族関係とは、洗礼や堅信礼により結ばれる関係のことである。洗礼あるいは堅信の時の代父・代母(名付け親)と、名付け子あるいはその父母との間で、結婚が禁じられた。



血族関係や姻戚関係により禁止された結婚は、司教の特別免除 dispensation により許可された。国家元首の場合は、ローマ教皇にのみ特別免除の権限があった



ちなみに、リチャード三世とアン王妃は、3親等と4親等の血族関係にある。



  • リチャードの母方の祖父母は、アン・ネヴィルの父方の曾祖父母である=3親等

  • リチャードの父方の曾祖父母は、アン・ネヴィルの母方の高祖父母である=4親等


リチャード(当時グロースター公)は、1472年に教皇庁から特免を受けた。





Copyright(C)since2005 白い猪亭


エリザベス・オブ・ヨークの婚約と結婚 3

エリザベスの婚約・結婚 1 > > 3 ]



3.ヘンリー七世(1457-1509, 在位14835-1509)



1483年4月9日にエドワード四世が死去し、長男エドワード(五世)の国王即位宣言がなされた。しかし、6月末、エドワード四世と‘王妃’エリザベス・ウッドヴィルの結婚は無効で、子供達は非嫡出であると宣言された(成文化されたのは翌1484年1月)。これに伴い、グロースター公リチャードの王位継承が承認された。7月6日、グロースター公リチャードはリチャード三世として戴冠した。



‘王太后’エリザベス・ウッドヴィルと5人の娘たちは、王位を巡る一連のゴタゴタの間(正確には5月1日の未明から)ウェストミンスター・アべイの庇護所に避難していた。彼女達が、リチャードとの交渉の後に庇護所を出たのは、翌1484年の3月1日のことだ。



1483年10月、リチャードの即位から3か月あまりで、当初リチャードの即位を指示していたバッキンガム公がウェールズで反乱を起こす。バッキンガム公の監視下にあったイリー司教ジョン・モートンに使嗾されたと言われる。



この際、大陸亡命中のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー七世)が、加勢のためイングランド上陸を試みた(結局、時期を逸してブルターニュ公国に引き返した)。
同時期に別の地域で起こった反乱には、エリザベス・ウッドヴィルの長男(前夫との息子)ドーセット侯トマス・グレイの他、2人の弟(リチャード・ウッドヴィルとソールズべリ司教ライオネル・ウッドヴィル)が関わっていた。
これらの反乱は間もなく鎮圧された。





ヘンリー・テューダーは、初代サマーセット公ジョン・ボーフォートの息女(女子相続人)マーガレット・ボーフォート(1443-1509)と、ヘンリー六世の異父弟エドマンド・テューダー(c.1430-1456)の一人息子である。
母方はランカスター家の傍系であるが、ボーフォート家はヘンリー四世治世に議会で王位継承を否定されているため、彼に王位継承権はない。しかし、ばら戦争によりランカスター本家の継承者が絶えたため、ヘンリー・テューダーはランカスターの後継者とみなされるようになった(但し、王家の血を引く貴族は他にもいた)。



ヘンリーは、1471年から叔父のジャスパー・テューダーと共にブルターニュに亡命していたが、母のマーガレット・ボーフォートは、イングランドにいた。彼女は、エドマンドとの死別後、初代バッキンガム公の子息サー・ヘンリー・スタフォード(-1471)と結婚。彼の死後は、スタンリー卿トマス(c.1435-1504, 後にダービー伯)と結婚した。



スタンリー卿は、爵位こそ男爵にすぎないが、ランカシャー、チェシャー、および北ウェールズの東部に強力な基盤をもつ、イングランド有数の大貴族であった。このヘンリー・テューダーの義父は、1483年10月の反乱では鎮圧に加わったものの、妻のマーガレット・ボーフォートと、長男(前妻の息子)のストレインジ卿ジョージは反乱首謀者の一員であり、弟と甥も関わっていた。しかし、彼らには寛大な処置が取られ、スタンリー卿トマスと弟のウィリアム・スタンリーは、反乱鎮圧後に優遇すらされた。その強い影響力を鑑みてのやむを得ぬ処置と考えられる。



1483年12月、ヘンリー・テューダーは王位継承宣言を行った。更に、12月25日には、レンヌ大聖堂(ブルターニュ)で、王位に就いた後にエドワード四世の長女エリザベス・オブ・ヨークと結婚することを誓約した。



同年秋(10月の反乱の前)に、ヘンリーの母マーガレット・ボーフォートと、庇護所にいたエリザベス・ウッドヴィルとの間で、「ヘンリーが王位に就いた場合、エリザベス・オブ・ヨークと結婚させる」という密約が交わされていたと考えられている。



エリザベス・ウッドヴィルがこの密約に同意した理由は、諸説あるものの、はっきりしない。息子たち(エドワード五世とヨーク公リチャード)が(リチャード三世もしくは他の何者かにより)殺されたことを知っていたからという説、エドワード五世は存命だったが復位は困難と考えたという説、更には、エドワード五世は存命だったがヘンリーの即位計画は失敗すると考えて色よい返事をしたという説まで様々である。



リチャード三世は、エリザベス・ウッドヴィルとの和解を試みた。1484年3月1日、エリザベスと娘たちは庇護所から出た。リチャード三世は彼女たちの安全を保障し、親族として扱うことを約束した。また、娘たちに適切な夫を捜し、結婚の際は一人につき200マークの年金を与えることも約束、エリザベス・ウッドヴィルに対しても年金を約束した。同年のクリスマスには、長女のエリザベス・オブ・ヨークが宮廷の宴に参加している。
リチャード三世は、エドワード四世の3女セシリィをレイフ・スクロープと結婚させ、5女アンをサリー伯嫡男トマス・ハワード(後の3代ノーフォーク公)と婚約させた



1485年3月16日、アン王妃が死去した。毒殺の風評があったが、死因は結核だったと推測されている。
王妃の死去前から、リチャード三世が、姪のエリザベス・オブ・ヨークと結婚しようとしているという噂が流れていた。イースター(復活祭)の少し前に、リチャードは、市長や市参事会員(Alderman) 、議員らを大ホールに集め、彼の悲嘆と不快感を表し、姪との結婚を強く否定した。



なお、アン王妃の死後まもなく、リチャードはポルトガルに使節団を派遣している。イングランドとポルトガルとの間の二重結婚の交渉のためである。1つはリチャード自身と、ポルトガル王ジョアン二世の姉ジョアナ("サンタ・ジョアナ・プリンセサ")の結婚、そしてもう1つは、エリザベス・オブ・ヨークと、ジョアン二世の従兄弟にして義弟であるヴィゼウ公・ベジャ公マヌエル(後のポルトガル王マヌエル1世)との結婚である。1485年8月、この結婚交渉はまとまりかけるが、リチャードの死と共に白紙に戻された。



1485年8月、ヘンリーはイングランドに侵攻。8月22日、ボズワースの戦でリチャード三世を破り、ヘンリー七世として王位に就いた。戴冠式は10月30日に挙行された(即位日はボズワースの戦の前日の8月21日とした)。







ヘンリー7世は、戴冠式の後もなかなかエリザベス・オブ・ヨークと結婚式を挙げようとしなかった。理由ははっきりしない。議会から誓約を果たすよう数度の要請を受けてウェストミンスター・アベイで挙式したのは、1486年1月18日のことだ。
同年9月に長男アーサーが誕生。伝説のアーサー王にちなんで名づけられた名前である。アーサー王宮廷があったと伝えられるウィンチェスターが出生の地として選ばれた。
エリザベス自身の王妃としての戴冠式はさらに遅く、1487年11月25日にウェストミンスター・アベイにて行われた。ヘンリー七世の戴冠式からは2年以上経っている。



『妊娠するまで結婚せず、出産するまで戴冠しなかった』とはpsyさんの御言葉だが、出産(しかも王太子を!)してから1年以上も戴冠してませんよっ……どう考えても冷遇されているとしか思えない。マジにマヌエル1世(当時は即位前)と結婚した方が良かったのではなかろうか。異国での苦労があったにしても。



エリザベス・オブ・ヨークとヘンリー7世の間には3男4女が生まれた。



  1. アーサー(1486-1502) イングランド王太子

  2. マーガレット(1489-1541) スコットランド王妃、アンガス伯夫人、メスヴェン卿夫人

  3. ヘンリー八世(1491-1547) イングランド王

  4. エリザベス(1492-1495)

  5. メアリ(1496-1533) フランス王妃、サフォーク公夫人

  6. エドマンド(1499-1500)

  7. キャサリン(1503-1503)


次女と三男は夭折し、長男の王太子アーサーも1502年に病のため急死した。その翌年、エリザベスは7度目の出産の際に死去し、その時生まれた四女もまもなく亡くなった。次男と長女、三女が残され、後に次男がヘンリー八世として王位に就いた。



エリザベスの婚約・結婚 1 > > 3 ]


Copyright(C)since2005 白い猪亭


白い猪亭

秋津羽

Author:秋津羽

カテゴリ
メニュー
最新記事
バックナンバー

2015年 11月 【1件】
2014年 12月 【1件】
2014年 11月 【1件】
2014年 08月 【1件】
2014年 04月 【2件】
2014年 03月 【1件】
2014年 02月 【1件】
2014年 01月 【1件】
2013年 12月 【2件】
2013年 11月 【2件】
2013年 10月 【1件】
2013年 09月 【1件】
2013年 08月 【3件】
2013年 07月 【1件】
2013年 06月 【1件】
2013年 05月 【1件】
2013年 04月 【5件】
2013年 03月 【5件】
2013年 02月 【5件】
2013年 01月 【1件】
2012年 12月 【2件】
2012年 11月 【2件】
2012年 10月 【2件】
2012年 09月 【4件】
2012年 08月 【2件】
2012年 07月 【3件】
2012年 06月 【1件】
2012年 05月 【2件】
2012年 04月 【1件】
2012年 03月 【1件】
2012年 02月 【2件】
2012年 01月 【6件】
2011年 12月 【1件】
2011年 11月 【1件】
2011年 10月 【3件】
2011年 09月 【1件】
2011年 08月 【3件】
2011年 07月 【2件】
2011年 06月 【3件】
2011年 05月 【4件】
2011年 04月 【1件】
2011年 03月 【3件】
2011年 02月 【1件】
2011年 01月 【4件】
2010年 12月 【2件】
2010年 11月 【5件】
2010年 10月 【4件】
2010年 09月 【6件】
2010年 08月 【5件】
2010年 07月 【6件】
2010年 06月 【1件】
2010年 05月 【4件】
2010年 04月 【3件】
2010年 03月 【6件】
2010年 02月 【8件】
2010年 01月 【8件】
2009年 12月 【2件】
2009年 11月 【15件】
2009年 10月 【5件】
2009年 09月 【3件】
2009年 08月 【3件】
2009年 07月 【1件】
2009年 06月 【1件】
2009年 05月 【5件】
2009年 04月 【1件】
2009年 03月 【12件】
2009年 02月 【9件】
2009年 01月 【6件】
2008年 12月 【3件】
2008年 11月 【1件】
2008年 10月 【7件】
2008年 09月 【1件】
2008年 08月 【10件】
2008年 07月 【10件】
2008年 06月 【4件】
2008年 05月 【1件】
2008年 04月 【1件】
2008年 03月 【7件】
2008年 02月 【2件】
2008年 01月 【5件】
2007年 12月 【1件】
2007年 11月 【1件】
2007年 10月 【3件】
2007年 09月 【2件】
2007年 08月 【6件】
2007年 07月 【2件】
2007年 06月 【2件】
2007年 05月 【2件】
2007年 04月 【9件】
2007年 03月 【3件】
2007年 02月 【6件】
2007年 01月 【3件】
2006年 12月 【8件】
2006年 11月 【4件】
2006年 10月 【7件】
2006年 09月 【27件】
2006年 08月 【5件】
2006年 07月 【8件】
2006年 06月 【9件】
2006年 05月 【8件】
2006年 04月 【7件】
2006年 03月 【8件】
2006年 02月 【10件】
2006年 01月 【7件】
2005年 12月 【11件】
2005年 11月 【5件】
2005年 10月 【7件】
2005年 09月 【19件】

検索フォーム
最近のコメント
Bookmark
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。