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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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ヘンリー八世の戴冠500周年

本年は、首斬りハリー、もとい、ヘンリー八世の戴冠500周年&エリザベス一世の戴冠450周年だそうで、英国では色々な展覧会が予定されている。



【Link】 ヘンリー8世 戴冠500周年 (Visit Britain 内) Link 切れ


「2番目の王妃であるアン・ブーリンの愛人がアンに捧げた楽譜」というのが気になる。アン・ブリンの愛人って誰のことだろう?姦通罪をでっちあげられた相手の誰かなんだろうなー。



【追記(2010.12.4)】



現在 Link 切れになっているが、Link 先では、ヘンリー8世の戴冠500周年を記念して開催された、ヘンリー8世の6人の妻たちにちなんだ展覧会「Henry’s Women」について紹介されていた。展示品の中には「2番目の王妃であるアン・ブーリンの愛人がアンに捧げた楽譜」もあった。



アン・ブリンに楽譜を捧げたのは、音楽家の Mark Smeaton だそう。
コメント欄でLeiさんに教えていただきました。
「調べてみたら
An illumination from a music manuscript, compiled for Anne Boleyn and possibly owned by her supposed lover Mark Smeaton
とありました。」
とのことです。Leiさん、どうもありがとうございました。



なお、Mark Smeaton は、アンとの姦通の罪で処刑された5名のうちの1人。
他の4名は、ロチフォード子爵 George Boleyn(アンの兄)、Sir Francis Weston、Sir Henry Norris、Sir William Brereton。

「Anneのsupposed
loverの中で彼だけが、身分が低く、唯一拷問をうけて姦通の告白をした人物です。また処刑の内容も彼だけ平民なので、他の4人が斬首刑なのに対し、
hanged and quarteredというのが一般的なのですが、捜査に協力的だったというのを理由に恩赦でbeheadingになったようです。」
とのことです。これもLeiさんにコメント欄でお教えいただきました。



……追記ここまで……






◇ 主な展覧会





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ヘンリー・テューダーの王位継承権主張 1

ヘンリー・テューダー(後のヘンリー七世)がイングランドの王位継承を主張した根拠について、大雑把にまとめてみたい。とりあえず、時系列順に。



  1. ヘンリー六世の母キャサリン・オブ・ヴァロア(フランス王女、イングランド王太后)と、オーウェン・テューダーの間に子供達が生まれた(長男がエドマンド、次男がジャスパー)

  2. ヘンリー六世が異父弟2人(エドマンドとジャスパー)に爵位を与えた(リッチモンド伯とペンブルク伯)

  3. リッチモンド伯エドマンド・テューダーが、ランカスター家傍系マーガレット・ボーフォート(初代サマセット公の息女)と結婚
    →エドマンドの死後、ヘンリー・テューダーが生まれた(薔薇戦争開始の翌年)

  4. ランカスター本家の後継者は全滅

  5. 薔薇戦争の間に、傍系のボーフォート家の男系男子も全滅

  6. ヘンリー・テューダーは、母方のボーフォート家の後継者として、さらにランカスター家の後継者として名乗りを上げた


こうしてヘンリー・テューダーはイングランド王位を請求したわけだが、実はいささか論理の飛躍がある。というか、彼の王位継承権には問題がある



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キャサリン・オブ・ヴァロアの再婚? 2

先日の貴賤相婚(morganatic marriage)の記事にLeiさんからいただいたコメントで、キャサリン・オブ・ヴァロア Catherine of Valois についての引用文が気になった。



もっとも不思議なのはTudorsです。
Marriages have never been considered morganatic in any part of the United Kingdom (But see the Oxford Dictionary of National Biography entry for the French-born Queen Consort of England Catherine of Valois which characterizes her second marriage to Owen Tudor as morganatic).

ならば、どうして、Henry Tudorが王位継承を主張出来たのかなぁ・・・と。無理が通れば道理がひっこむ、みたいな感じでしょうかねぇ?



キャサリン・オブ・ヴァロアとオーウェン・テューダーの結婚が morganatic?そうなの?
「Oxford DNB の entry を見よ」とのことなので、確認してみた。ちょうど手元に、Oxford DNB の Catherine of Valois の項目があったので(汗)
確かに morganatic marriage と書かれている。





Nevertheless, in spite of the council's precautions, some time between 1428 and 1432 Catherine did contract a morganatic marriage, though this only became known after her death. Her new husband was a young Welsh squire, Owen Tudor . Where and when they first met is unknown.


評議会の警戒にも関わらず、1428年から1432年の間に、キャサリンは morganatic marriage をした。もっとも、この事が(広く)知られたのは彼女の死後だった。彼女の新しい夫は、若いウェールズ人のスクワイア、オーウェン・テューダーだった。いつどこで彼らが知り合ったのかは不明である。(秋津羽 訳)



注:1428年に、国王と評議会の承認がなければ王太后(前王ヘンリー五世の妃、ヘンリー六世の母)キャサリンの再婚を禁じる、という法令が議会で可決されていた。キャサリンが、初代サマセット伯ジョン・ボーフォートの4男エドマンド・ボーフォート(後に2代サマセット公)との結婚を望んでおり、評議会がそれを阻止しようとしたという説がある。



"this only became known after her death." という記述にえー?と思ったのだが(なお、キャサリンの死去は1437年)、その少し後に次のように書かれていた。



Within court circles Catherine's second marriage was known by May 1432 when Owen Tudor was given the rights of an Englishman, to protect him from earlier anti-alien legislation; in March 1434 Catherine openly granted him various favours on her Flintshire lands.


宮廷ではキャサリンの2度目の結婚は1432年5月までに知られていた。同年5月、オーウェン・テューダーにはイングランド人の権利が与えられ、これにより彼は外国人に対する法令を免れることとなった。1434年3月、キャサリンは自分のFlintshireの領地において、彼に公然と様々な恩恵を与えた。(秋津羽 訳)


この項の筆者はMichael Jones。この方だろうか?



個人的な印象だが、"morganatic"という言葉は、法的な"morganatic marriage"の意味で使われている場合と、もっと広義に"unequal marriage"(身分違いの結婚)の意味で使われている場合があるように思う。



キャサリン・オブ・ヴァロアとオーウェン・テューダーの場合、"unequal"なのは確かだが、ドイツ語圏で行われていた(狭義の)"morganatic marriage"とは異なるのではないだろうか?
彼らの「結婚」に関して問題なのは、秘密結婚 clandestine marriage だったこと、正式に結婚した(教会に認められた)証拠がないことだろう。彼らが結婚したことを示す"当時の"文書はない筈である。



以前にも書いた(キャサリン・オブ・ヴァロアの再婚?)が、2人の孫にあたるヘンリー七世は、キャサリンの墓に「オーウェン・テューダーと結婚した」旨の銘を加えた。父(エドマンド・テューダー)が庶子でないことを示すためだったと言われている。



ヘンリー・テューダー(ヘンリー七世)の王位継承権主張については、別に書きたい。
まさしく無理を通したんですよ、ええ。


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ヘンリー・テューダー(ヘンリー七世)の家系 補記 2

《キャサリン・オブ・ヴァロアの再婚?》



ヘンリー5世はフランスへの遠征中に赤痢に感染し、35歳で死亡した(1422年8月)。その時、王妃のキャサリン・オブ・ヴァロアは20歳、王太子ヘンリー(ヘンリー6世として即位)は9ヶ月足らずの赤ん坊だった。



未亡人となったキャサリンは、宮廷の廷臣(納戸係事務官とも武官ともいわれる)オーウェン・テューダーとの間に3男2女をもうける(1女は夭折)が、二人が正式に結婚していたかどうかははっきりしない。
1428年、議会は、国王と評議会の承認がなければ王太后キャサリンの再婚を禁じる、という法令を可決した。1429年頃、もしくはそれより前に、キャサリンとオーウェンが秘密結婚(clandestine marriage)をしたという説があるが、証拠はない。




キャサリンは1436年にバーマンジーの修道院に入り(病気療養のためらしい)、翌年死亡する。オーウェンは一時投獄されるが、後に釈放された。後年、彼は、ばら戦争(第1期)においてランカスター軍を指揮するが、モーティマーズ・クロスの戦で捕らえられ処刑された。



キャサリンとオーウェンとの子のうち男子2名、エドマンドとジャスパーは、歴史上大きな役割を果たすことになる。
他に兄弟のいなかったヘンリー6世は異父弟を寵愛し、1452年、エドマンドをリッチモンド伯に、ジャスパーをペンブルク伯に叙した。王の異父弟かつ貴族としての地位を得たエドマンドは、1455年、名門サマセット公の息女マーガレット・ボーフォートと結婚するが、翌1456年11月に、捕らえられていたヨーク派の城で病死。約3ヶ月後に唯一の子ヘンリーが生まれた。後のヘンリー7世である。



ヘンリーの叔父ジャスパーは甥を後見した(但し、1461年から1470年にかけてはジャスパーは亡命しており、ヘンリーはヨーク派の貴族の下で養育されていた)。1471年のランカスターの再敗北 ‐ エドワード4世の復位後は、ジャスパーは少年のヘンリーを連れてブルターニュに亡命。1485年、ヘンリーのイングランド侵攻およびボズワースの戦の際にも甥を補佐し、ヘンリー即位後はベドフォード公に叙され、カーディフ城を与えられた。



キャサリン・オブ・ヴァロアの墓には、ヘンリー7世により、「オーウェン・テューダーと結婚した」旨の銘が加えられた。自身の血統の正当性を気にしていたヘンリーが、父のエドマンドが庶子でないことを示すためだったと言われる。



【関連記事】 キャサリン・オブ・ヴァロアの再婚? 2



最終更新日:2011.5.5


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ヘンリー・テューダー(ヘンリー七世)の家系 補記 1

《ルウェリン・アプ・グリフィズ(ルウェリン・ザ・ラスト)の娘について》



ルウェリン(スィウェリン)・アプ・グリフィズ Llywelyn ab Gruffydd は北部ウェールズの首長であり、しばしば最後のネイティヴ・プリンス・オブ・ウェールズと言われる。ウェールズの他の領主を臣従させてプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)を名乗り、後にヘンリー3世がこの称号を公認した。この場合のプリンスは王子ではなく、「公国の君主」といった意味合いだ。



ヘンリー3世の息子エドワード1世は、1277年から1283年にかけてウェールズに侵攻。1282年ルウェリンは敗死し、弟のダフィズ(ダヴィズ)も翌年捕らえられて処刑された。これによりウェールズは平定され、事実上の独立は終わりを告げる。その後もイングランドへの反乱が何度も起こるが、1536年ヘンリー8世治世の「Act of Union(連合法)」により、ウェールズはイングランドに統合された。





ところで、ルウェリン・アプ・グリフィズの妃エレノアは、レスター伯シモン・ド・モンフォールとエレノア・オブ・イングランド(ジョン王の末子、ヘンリー3世の妹)の娘である。
ルウェリンとエレノア・ド・モンフォールとの間には一子があり、これが娘のグウェンリアン(グウェンスィアン) Gwenllianだ。彼女は修道院に入れられ生涯を過ごした。



今回テューダー家の祖先を調べていて、オーウェン・テューダーの曾祖母の母カトリン(キャサリン)が、ルウェリン・アプ・グリフィズとエレノア・ド・モンフォールの娘であるという説があるのを知った(系図には?つきで記載した)。これが本当ならば、ウェールズ最後の首長の血がテューダー家に流れている、ということになる。
が、エレノア・ド・モンフォールは、唯一の子グウェンリアンを出産した際に亡くなったとされている。カトリンがルウェリンの庶子という可能性もあるが、どうもはっきりしない。
個人的には、テューダー朝の(もしくは後世の)宣伝工作ではないか、と邪推している。



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秋津羽

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