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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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リチャード三世 略史 その後

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―その後―

1485年8月22日、ボズワースの戦でヘンリー・テューダーが勝利し、ヘンリー7世として即位する。戴冠式は10月30日に挙行されたが、即位日はボズワースの戦の前日の8月21日とした。これにより、リチャード3世について戦った者を大逆罪で告発した("正統の王"ヘンリー7世に反逆したとする)。

翌1486年1月、ヘンリー7世は、かねてからの誓約通りエリザベス・オブ・ヨークと挙式。9月に誕生した長男を、伝説のアーサー王にちなみ、アーサーと名づける。この時、王妃の出産地に選ばれたのは、アーサー王伝説ゆかりのウィンチェスター(アーサー王の宮廷キャメロットがあった場所と伝えられている)である。

1487年、星室庁(星室裁判所)創設。国王直属の特別裁判所であるが、陪審を用いず極めて不公正であった(後に、政治的弾圧にも多く用いられた)ため、1641年ステュアート朝のチャールズ1世治世に廃止されることになる。

ヘンリー7世には正統な王位継承権がなく、即位後は王位僭称者が相次いで現れた。

即位の翌年には、ランバート・シムネルがクラレンス公ジョージの息子ウォーリック伯エドワードと名乗り、翌1487年、アイルランドのダブリンで「エドワード6世」と宣言。この時のシムネルの年齢は10歳から13歳と諸説ある(ウォーリック伯は12歳)。
ウォーリック伯本人はロンドン塔に幽閉されていたが、ブルゴーニュ公未亡人マーガレット(エドワード4世の妹、クラレンス公とリチャード3世の姉)はシムネルを甥の「ウォーリック伯エドワード」として承認した。「エドワード6世」はダブリンで挙兵し、リンカン伯ジョン・ド・ラ・ポール(リチャード3世の甥、エリザベス・プランタジネットの長男)と、リチャード3世の腹心ラヴェル子爵フランシスもこれに加わり、イングランドへ侵攻する。

しかし、6月16日、ストークの戦でヘンリー7世軍に破れ、ジョン・ド・ラ・ポールは戦死。ラヴェルは逃亡するが、その後死亡したと伝えられる。広義には、このストークの戦がばら戦争の終結とされる。
シムネルは捕らえられたが処刑されず、ヘンリーはシムネルを王宮の厨房係とし、後に鷹匠とした。

次いで、1491年、パーキン・ウォーベックが、エドワード4世の次男ヨーク公リチャードと名乗りをあげた。ウォーベックはヨーク公(生存していれば18歳)とほぼ同年齢だった。ウォーベックには、フランス王シャルル8世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(ブルゴーニュ公シャルルの息女マリーの夫)、スコットランド王ジェイムズ4世など、イングランドに干渉しようとする各国の王達の支持が集まった。
1492年、フランス王シャルル8世が彼を招いた際、ブルゴーニュ公未亡人マーガレットは甥の「ヨーク公リチャード」であると承認を与えた。

1495年、ウォーベックはイングランドへ侵攻するが、ヘンリー7世軍に破れアイルランドへ敗走。その後、アイルランドのウォーターフォードでも破れ、スコットランドへ敗走する。しかし、スコットランド王ジェイムズ4世はウォーベックを歓迎し、ジェイムズ1世の血を引くキャサリン・ゴードン(ハントリー伯の息女)と結婚させた。翌1496年には、ジェイムズ4世と共にノーサンバランドへ侵攻し、「リチャード4世」を宣言するが、すぐに撤退。1497年、ウォーベックはアイルランドを経て、コーンウォールへ上陸。エクセターへ侵攻するが、ヘンリー7世軍に捕らえられ、ロンドン塔に送られた。
1499年、脱走を計画したとして、パーキン・ウォーベックは処刑される。計画に協力したとして、ロンドン塔幽閉中のウォーリック伯エドワード(24歳)も処刑された。ヘンリーの真の目的はウォーリック伯の処刑であったと考えられている。



―人々―

王妃エリザベス・オブ・ヨークは1503年、7度目の出産の際に死去し、その時生まれた四女もまもなく亡くなった。次女と三男は夭折し、長男アーサーも1502年に病のため急死しており、次男と長女、三女が残された。次男が後にヘンリー8世となる。

王太后にして、王妃エリザベスの母、エリザベス・ウッドヴィルは、1487年2月、ヘンリー7世により、バーマンジーの修道院に送られ幽閉された。所領を没収され年金も停止されて、1492年に貧困のうちに死去したと伝えられる。

リチャード3世の庶子ジョン・オブ・グロースターは、1491年に(1499年という説も)処刑された。

リチャード3世に重用された騎士、サー・ジェイムズ・ティレルは、ボズワースの戦の際は任地のギーヌにおり参加していなかった(ギーヌの副総督だった)。ヘンリー七世即位後に一時所領を没収されたが、1486年、ティレルはヘンリー7世の恩赦を受け、その地位と所領を回復した。
ティレルは、1501年、亡命中のサフォーク伯エドマンド・ド・ラ・ポール(ジョン・ド・ラ・ポールの弟)を支援したとして反逆罪で逮捕され、翌1502年に処刑された。この時、エドワード5世と弟王子のヨーク公リチャードの殺害を自白したとされるが、その自白書は残されていない。
エドマンド・ド・ラ・ポールは、1513年にヘンリー8世により処刑された。

イリー司教ジョン・モートンは、1486年カンタベリー大司教に、1487年大法官に任命され、終身その地位にあった。1493年には枢機卿に任命され、1500年その生涯を終えた。彼が税収増加のために用いた手法は「モートンの二叉論法(モートンの熊手, Morton's Fork)」として悪名が高い。

第4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは、ボズワースの戦の後に捕らえられるが数ヶ月で釈放され、その地位と所領も温存された。しかし、1489年、ヨークシャーの領地で、高額の加税に反対する暴徒により殺された。

ヘンリー7世の義父トマス・スタンリーは、1485年10月、初代ダービー伯に任ぜられ、1504年に死去するまでその地位にあった。
一方、弟のウィリアム・スタンリーは、1495年、パーキン・ウォーベックの乱に関わったとして処刑された。

クラレンス公ジョージの息女マーガレット・プランタジネットは、サー・リチャード・ポールと結婚したが、弟エドワードの処刑後、ソールズベリ伯の爵位を受け継ぎ、ソールズベリ女伯となった(ウォーリック伯の爵位は没収された)。
マーガレットは、後にヘンリー8世長女メアリ(後のメアリ1世)の養育係となる。ヘンリー8世が、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(メアリの母)との結婚を無効とし、アン・ブリン(エリザベス1世の母)と結婚した際に、マーガレットは宮廷から追放された。アンの処刑後には再び宮廷に戻るが、1538年大逆罪の容疑で逮捕され、1541年、68歳で処刑された。

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最終更新日:2007.3.8


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リチャード三世 略史 5

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―ヘンリー・テューダーのイングランド侵攻―

王妃アンの没後5ヶ月足らずの1485年8月、リチャード3世は、かねてから準備されていたリッチモンド伯ヘンリー・テューダーのイングランド侵攻に直面する。

8月1日、フランス国王シャルル8世の支援を受けたヘンリーは、傭兵を主体とする2,000人の軍を率いてアルフルール(セーヌ河口の港)を出航し、ウェールズに向かう。8月7日にミルフォード・ヘヴン近くに上陸し、行軍を開始。

テューダー家がウェールズの出身であり、また、ヘンリーの叔父ペンブルク伯ジャスパー・テューダーが以前ウェールズ南部を統治していたため、旧来の従臣やウェールズの有力ジェントリがヘンリーの下に集まった。4代シュルーズベリ伯ジョージ・トールボットと叔父サー・ギルバート・トールボットもヘンリーの軍に加わる。
更に、ヘンリーは、義父のスタンリー卿トマス、および、その弟サー・ウィリアム・スタンリーに援助を要請した。
8月11日、リチャード3世はヘンリー・テューダー上陸の報を受け、直ちに貴族たちに国王軍への参加を要請する。20日、リチャードはレスターに集結中の国王軍に加わり、翌21日に軍を率いて、ボズワース近郊のサットン・チェイニーに布陣した。
ヘンリー軍は、同日、国王軍の西側に陣を敷いた。

―ボズワースの戦 (1485年8月22日)―

8月22日早朝、レスターシャーのボズワース・フィールドで、国王軍とヘンリー・テューダー軍の戦闘が開始された。勝敗は2時間ほどで決したと言われている。
国王軍は計10,000~12,000人。うちリチャード3世自身の軍が2,000~3,000、ノーフォーク公軍1,200、スタンリー卿兄弟の軍3,000~5,000、ノーサンバランド伯軍1,200。
一方のヘンリー軍は約5,000名で、国王軍が人数において優っていた。

スタンリー兄弟は、側面の、国王の陣からもヘンリーの陣からも遠くない場所に布陣していた。しかし、戦が始まっても攻撃に移らず、戦場の北側の防衛線まで後退 した。ノーサンバランド伯も中立を決め込み、予備軍を動かさなかった。
リチャードの前衛部隊を率いていたノーフォーク公はまもなく危機的状況に陥り、戦死する。

ヘンリーは加勢を請うために、参戦を拒否していたスタンリー兄弟の陣へ向かった。リチャードはそれを阻止すべく、騎士達の小隊を率いてヘンリーに直接攻撃を試みる。リチャードはヘンリーの旗手を斃し、ヘンリーの間近に迫るが、スタンリー兄弟が軍を動かしヘンリーに加勢。リチャード3世は敵に取り囲まれ、"Treason! Treason! Treason! (裏切り、反逆)"と叫んで斃された。
リチャード3世は戦場で死んだ最後のイングランド国王となった。

知らせを聞いたヨーク市では、公式記録にこう書き記した。
慈しみ深くわれらを統べたまいしリチャード王は、むざんにも惨殺されたもう。われらの町の大いなる悲しみなり

リチャードの遺体は裸にされ汚辱を加えられた後、ボズワースの東のレスターに運ばれ、グレイフライヤーズ・アベイに埋葬された。しかし、この修道院はヘンリー8世の宗教改革で壊され、リチャードの墓も失われた。この時遺体はソア川に捨てられたという話が伝えられているが定かではない。
現在はボウ橋のたもとに、かつての埋葬地を示す標示が残るのみである。

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として王位に就き、エリザベス・オブ・ヨークと結婚。ばら戦争は一応終結した。

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リチャード三世 略史 4

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―国王リチャード I:戴冠~最初の反乱―

リチャード3世は戴冠式(1483年7月6日)の2週間後から各地を巡幸する。
王妃アンが途中で合流、その後、嫡男のエドワード・オブ・ミドゥラムも合流し、一行は8月末にヨーク市へ入場。9月8日にはヨーク・ミンスターで2回目の戴冠式(正規の式典ではない)を行い、嫡男エドワードをプリンス・オブ・ウェールズに叙した。
10月初旬、バッキンガム公が反乱を起こす。エドワード4世治世に失った所領の返還が認められなかったのが一因とされる。
大陸亡命中のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、反乱に加勢すべくイングランド上陸を試みるが、悪天候のためブルターニュ公国に引き返した。ヘンリーはランカスターの傍系ボーフォート家の血を引いており、ランカスターの後継者を名乗っていた。なお、6月に一時逮捕されたスタンリー卿は、ヘンリーの義父である。
この計画には、イリー司教ジョン・モートン(逮捕後、バッキンガム公の監視下にあった)が加わっていた。モートンは大陸へ逃亡し、その後もリチャード3世政権の転覆計画に関与する。

バッキンガム公の反乱はまもなく鎮圧され、公爵は捕らえられて、11月2日に処刑された。
この反乱と並行して南部で3つの反乱が起こるが11月半ばには鎮圧された。うち1つには、"王太后"エリザベス・ウッドヴィルの前夫との間の長男ドーセット侯トマス・グレイが関与しており、彼は大陸に逃亡した。
これらの反乱指導者の多くは南部の有力者だったため、王室府や南部地域の官吏に空位ができ、北部出身者が多く登用された。リチャードは北部の支持者への依存を強めることになる。

同年12月、ヘンリー・テューダーは王位継承宣言を行い、12月25日にはレンヌ大聖堂(フランス北西部)で、王位に就いた後にエドワード4世長女エリザベス・オブ・ヨークと結婚することを誓約する。

―国王リチャード Ⅱ:政権確立―

1484年1月、リチャード3世は最初で最後となる議会を開く。この議会で、リチャード3世の王位を承認する「ティトゥルス・レギウス Titulus Regius(王位継承法、王位承認法)」が正式に可決された。また、強制公債(強制献金 Benevolence)の禁止、保釈の権利、陪審員の強迫禁止などの法案が可決される。

政権はひとまず安定していた。3月には、"王太后"エリザベス・ウッドヴィルと娘達(エドワード4世遺児)は、ウェストミンスター・アベイの庇護所から出て宮廷に迎えられた。"王太后"は、長男のドーセット侯の追放解除をリチャード3世に願い出、ドーセット侯に手紙を書いて帰国を促している。

4月、リチャードとアン王妃がノッティンガム城にいた際、王太子エドワードがミドゥラムで急病のため死去する。リチャードは当初、9歳の甥ウォーリック伯エドワード(クラレンス公ジョージの嫡男)を後継者とするが、これは、ジョージと妃イザベル(アンの姉)の遺児を可愛がっていたアン王妃のためではないかと考えられている。翌年には、リチャードは、成人している甥のリンカン伯ジョン・ド・ラ・ポール(姉エリザベスの長男)を後継者に指名した。
もともと健康の優れなかったアン王妃は、1485年3月16日、王太子エドワードの死から1年足らずで28歳で死去する。毒殺の風評があるものの、死因は結核と考えられている。

―国王リチャード Ⅲ:政権崩壊―

リチャード3世の戴冠から1年、1484年7月に2件の反乱が計画された。これらは未然に防がれたが、10月末にはイースト・アングリアとカレーで2件の反乱が起こる。カレーの反乱では、ランカスター派最大の軍人貴族であるオクスフォド伯ジョン・ド・ヴィアが、捕らえられていた城から救出され、フランスに逃亡した。2件の反乱には関連があり、背後ではモートン・イリー司教が反乱を主導していた。

1484年10月の反乱に先立ち、リチャード3世はブルターニュ公国に亡命中のヘンリー・テューダーの引渡しを要求し、9月、ブルターニュ公はこの要求を受け入れた。しかしヘンリーはこの情報を知り、脱出してフランスに保護を求めた。11月にはフランス国王シャルル8世から、イングランド侵攻の援助の約束を取り付ける。>

12月、リチャードはヘンリーとその配下を非難する宣言書を発布。ヘンリーのイングランド侵攻予防のため、防衛に力を入れる。
このため軍事費が増大して財政困難に陥り、翌1485年2月には、前年の議会で禁止された公債の強制をせざるを得なくなった。これに反対した貴族・騎士・ジェントリにより、5月に反乱が起こる。フランス亡命中のヘンリーが反乱を支援した。

ヘンリー・テューダーは、1485年4月から6月までの間にイングランド侵攻の準備を整え、7月末には軍の集結を完了する。

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リチャード三世 略史 3

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 >>関連記事 : リチャード三世の戴冠

―エドワード4世の崩御―

1483年4月9日、エドワード4世は41歳の誕生日を前に、病のため死去した。2日後、国王評議会(Council)は12歳の王太子エドワードの国王即位宣言(エドワード5世)を行う。リチャードも評議会の一員であるが、この時は北部の所領におり出席していない。
エドワード4世は遺言により、グロースター公リチャードを未成年の新国王の摂政保護卿, Lord Protector)として指名していた。しかし評議会は、エドワード4世妃(王太后となる)の親族ウッドヴィル家の派閥が中心となっており、摂政をおかずに国家統治を評議会自身に委ねる決定を下す。
王太子は当時、ウェールズのラドロウ城で母方の叔父(エドワード4世妃の弟)であるリヴァーズ伯の監督下に教育を受けていた。父王の死の2週間後、エドワード5世はリヴァーズ伯の率いる2,000名の軍と共にロンドンに向かう。

一方リチャードは、その数日前に600名の軍を率いてヨーク市を出立した。ロンドンへ向かう途中、ノーサンプトンでバッキンガム公が手勢を連れて合流し状況を知らせる。リチャードはノーサンプトン西方から引き返してきたリヴァーズ伯と会見し、翌早朝、陰謀の廉でリヴァーズ伯を逮捕。
さらに、エドワード5世滞在中のストーニー・ストラトフォードに向かい、一行のうち、王太后の前夫との間の子(新国王の異父兄)であるサー・リチャード・グレイを含む3名を逮捕した(4月30日)。彼らは後に処刑される。

ロンドンで知らせを聞いた王太后は、他の子供達を連れウェストミンスター・アべイの庇護所に避難した。



―王位継承、あるいは簒奪―

リチャードはエドワード5世に同行してロンドンへ向かい、5月4日にロンドンに入場する。
評議会により、エドワード5世の居住地はロンドン塔に決められ、リチャードは摂政(保護卿)に任命された。当初5月4日に予定されていた戴冠式は6月下旬に延期され、リチャードと評議会は戴冠式の準備を進めた。

6月13日、リチャードは、自身に対する陰謀を企てたとしてヘイスティングズ卿ヨーク大司教トマス・ロザラムイリー司教ジョン・モートンおよびスタンリー卿を逮捕。ヘイスティングズ卿は首謀者として処刑された。スタンリー卿はまもなく釈放される。
3日後、エドワード5世の弟ヨーク公リチャードがウェストミンスター・アベイから兄王のいるロンドン塔へ移る。

この頃、問題が持ち上がる。ある聖職者(バースおよびウェルズの司教ロバート・スティリントンとされている)が、エドワード4世を初代シュルーズベリ伯息女エレノア・バトラー(トールボット)と婚約させたことがあると告白。
「王妃」エリザベス・ウッドヴィルとの結婚より前のことであり、当時、婚約には結婚と同等の拘束力があったため、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚は無効となる。結果、王の子供達は庶子となり、王位継承権がなくなってしまう。

25日、議会(Parliament 貴族院および庶民院)の議員達の集会で、子供達が非嫡出であること、および、グロースター公リチャードの王位継承が承認される。翌26日、議員達はリチャードに請願を提出し、リチャードは受け入れた。
この内容は、後に「ティトゥルス・レギウス Titulus Regius (王位継承法, 王位承認法)」として議会で成文化された。

7月6日、グロースター公リチャードはリチャード3世としてウェストミンスター・アべイで戴冠する。

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リチャード三世 略史 2

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―北部統治―



ウォーリック伯の最初の反乱(1969年)の後から翌年にかけて、リチャードは、既にもっていた海軍司令長官(Admiral of England)職に加え、終身のイングランド武官長(Constable of England)や、ウェールズの重要な職のいくつかに任ぜられている。更に、エドワード4世が政権を回復した後には、終身のイングランド式部長官(Great Chamberlain of England)にも任命された。また、ウォーリック伯の所領の一部を付与された。
その後も所領の拡大や官職への任命があり、次第に北部地域の統治を委ねられるようになっていく。

なお、クラレンス公ジョージは、反乱に与したにも関わらず、以前の所領に加え広大なウォーリック伯の所領の多くを付与され最大の土地所有者となった。その後数年にわたり、リチャードとジョージの間で所領と官職を巡って対立が起き、最終的にイングランド式部長官職はジョージに与えられ、ジョージに付与されたウォーリック伯所領の一部がリチャードの所領となった。

1472年、リチャードはアン・ネヴィル(ウォーリック伯次女、ヘンリー6世王太子エドワードの元妃)と結婚、イングランド北部で暮らす。上記の所領を巡る対立には、ジョージの妻イザベルもアンもウォーリック伯の息女で共同女子相続者(coheiress)であったことが関係している。
(おそらく)1473年に、アンとの間の唯一の子、エドワード・オブ・ミドゥラムが生まれた。

リチャードは北部地域の統治に力を注いだ。中心都市であるヨーク市をはじめとして北部の経済振興を助け、法秩序の維持にも力を入れ、領民の信望を得た。教会への支援も行っている。
また、北部辺境地域はスコットランドの脅威に悩まされており、リチャードは北西部辺境防衛司令長官(辺境守護職 Warden of the West March against Scotland)として国境の防衛に携わった。特に1480年から1482年にかけては、侵入したスコットランド軍の撃退と2度のスコットランド遠征が行われたが、リチャードは軍事面で勝利を収め、外交面でも奔走し、国王と北部地域の信頼を一層篤くした。



―クラレンス公ジョージの処刑―

リチャードが中央に顔を出すのは限られた機会のみとなったが、その1つが兄クラレンス公ジョージの処分に関する国王評議会および議会への出席である。

ジョージはウォーリックの反乱に与しエドワードと和解した後も、権力と富への野心が衰えず、様々な問題を引き起こした。エドワード4世はジョージの勢力を削ごうとしたため、両者は対立する。

1476年12月ジョージの夫人イザベルが死亡。その直後からジョージは外国の富貴な女性との再婚を2度にわたり計画するが、エドワード4世に阻止される。不満を募らせたジョージは不法行為を繰り返し、1477年6月、ついに逮捕されロンドン塔に送られた。国王評議会で、ジョージの処分については議会を開くこととなる。翌1478年1月の議会でジョージは大逆罪により告発され、処刑法案が可決された。リチャードはこれに公然と反対したと言われている。
2月18日、ジョージはロンドン塔で密かに処刑された(28歳)が、日付以外には詳細な記録がない。マルムジー・ワインの樽で溺死させられたという話が有名だが、これは当時の噂話が広まったと考えられている。

ジョージの処刑後、その広大な所領の多くは王室領となったが、一部はリチャードに与えられた。また、以前ジョージに引き渡したイングランド式部長官(終身)にも任ぜられた。その後もリチャードは北部の所領を拡大させ、北部最大の実力者としての地位を確立する。
一方、王妃の親族であるウッドヴィル一族も勢力を強め、次第にリチャードと対立するようになった。

:
1人目は、ブルゴーニュ公シャルル・"ル・テメレール"の息女マリー・ド・ブルゴーニュ(マリア・フォン・ブルグンド)。クラレンス公ジョージの姉マーガレットの義理の娘に当たる。彼女は、1477年、ハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)と結婚する。
2人めは、スコットランド王ジェイムズ3世の妹マーガレット。

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最終更新日:2009.2.24


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