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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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スコットランド遠征(1481-1482)

イングランドとスコットランドは、1474年10月にエディンバラで結ばれた協定以後、1479年10月まで平穏な状態が続いていた。が、1479年末から、スコットランド軍の越境、略奪が始まり、両国は緊張関係に入った。このスコットランドによる停戦協定の破棄には、フランス王ルイ十一世の働きかけが関係しているのではないかと考えられている。



これを受け、1480年5月12日、エドワード四世はグロースター公リチャードを北部総監 Lieutenant General of the North に任命し、リチャードは北部地区の軍事権を掌握した。統監 Lieutenant General は、戦争・内乱等の緊急時に一時的におかれる職であったが、設置期間中は、軍の徴集権・統率権と管区統括権を全て掌握する。


なお、平時は、北西部辺境防衛司令長官(辺境守護職) Warden of the West March against Scotland であるリチャードが国境西部地域の軍事権を、ノーサンバランド伯(Warden of the East March)が国境東部地域の軍事権を握っていた。



同年夏、第5代アンガス伯アーチボルド・ダグラス Archibald Douglas, 5th Earl of Angus 注1 率いるスコットランド軍が、東部国境付近のバンバラ Bamburgh を攻撃する。リチャードはこれを撃退し(9月)、彼の第1回目の北部総監職は解かれた。



 Link: バンバラ城 Bamburgh Castle のサイト 北海に面している



【第1回スコットランド遠征】



1481年に入ると、本格的なスコットランド遠征の準備が開始された。
当初は、エドワード四世自身が総司令官として出陣する予定だった。3月には、遠征計画の検討のために、グロースター公リチャードがロンドンを訪問している。しかし、実際には国王は出陣せず、1481年末から1482年初めのスコットランド遠征(第1回)の指揮は、グロースター公とノーサンバランド伯に任せられた。



リチャードは、カーライル Carlisle のハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall を修復し、国境守備隊の兵を募った。また、イングランド亡命中のスコットランド貴族ジェイムズ・ダグラス(第9代ダグラス伯,1455年に私権剥脱されていた) James Douglas, 9th Earl of Douglas と共に、スコットランド貴族の買収にあたったが、秘密交渉はうまくいかなかった。



1481年晩春には、ハワード卿ジョン(後の初代ノーフォーク公)が、フォース湾 the Firth of Forth (スコットランド南東部の北海の入り江)でスコットランド船の拿捕と破壊を行い、ブラックネス Blackness の港を焼いた。
続いて、夏に、国王が総司令官として軍を率いる予定だった。しかし、エドワード四世は出陣できなかった。税金の徴収(軍事費調達のため)に対する反発への対応のためと、健康上の理由によるらしい。



10月、リチャードは、ノッティンガム滞在中のエドワード四世を訪問し、年内に大規模な遠征を行うには時期が遅すぎる、ということで意見が一致したようだ。
その後、リチャードは前線に戻り、ベリック(べリック・アポン・トゥイード Berwick-upon-Tweed)  を包囲攻撃したが、陥落させることはできなかった。ベリックは国境沿いの城砦だが、1460年以来スコットランド軍に占領されていた。
冬の間、断続的に戦闘が続けられた。



【第2回スコットランド遠征】



1482年に入ると、再び遠征の準備が始められた。
5月下旬に、リチャードはスコットランド南西の国境付近を攻撃し、ダンフリーズ Dumfries と他の小さな町を焼いた。



この頃、スコットランド国王ジェイムズ三世の弟、オルバニィ公アレクサンダー・ステュアート Alexander Stewart, Duke of Albany (c. 1454-1485)がイングランドに亡命してきたことで、状勢はやや変化する。



オルバニィ公と弟のマー伯は、兄王ジェイムズ三世と対立し、1479年に陰謀の罪に問われて逮捕された。オルバニィ公は逃亡したが、マー伯ジョン・ステュアート John Stewart, Earl of Mar 注2 (1456/59-1479)は投獄中に死亡した。ジェイムズ三世の命で殺害されたと考えられている。
オルバニィ公はフランスに亡命していたが、スコットランド王位請求への支援を求め、イングランドに渡ってきたのだった。



6月11日、フォザリンゲイにおいて、エドワード四世とオルバニィ公との間で協定が結ばれた。リチャードもこの会談に加わっていた。エドワード四世がオルバニィ公のスコットランド王位請求を支援し、オルバニィ公が即位した際は、スコットランド領の一部と外交特権の若干をエドワード四世に引き渡すという条件であった。
翌日、リチャードは、再び、北部総監 Lieutenant-General of the North に任命された。
7月中旬には、リチャードを総司令官とし、オルバニィ公も加わった大規模な遠征軍(約2万人)がスコットランドに派遣された(第2回スコットランド遠征)。



イングランド軍は、まず国境沿いのベリックに向かった。城砦の包囲をスタンリー卿に任せ、軍の主力は北上した。ジェイムズ三世は、これを迎え撃とうと軍を率いて南下した。
しかし、イングランド軍がスコットランド軍と交戦する前に、ジェイムズ三世は、ローダー Lauder で、国王に反感を持つスコットランド貴族達の捕虜となってしまった(7月22日)。ジェイムズ三世は寵臣を殺され、自身はエディンバラ城に囚われた(その後、スコットランド貴族達は、国王を連れ、エディンバラ近くのハディントン  Haddington に移動した)。



7月末にはイングランド軍がエディンバラに入ったが、抵抗はなかった。



自国の国王を捕らえたスコットランド貴族達は、グロースター公に和平交渉を申し込んだ(8月2日)。彼らは、スコットランド王太子ジェイムズとエドワード四世の3女セシリィ・オブ・ヨーク(当時婚約していた)の婚姻履行を改めて申し出た。一方、リチャードは、べリックの城砦と(以前に支払われた)セシリィの持参金の返還を要求した。
8月4日、スコットランド側は、エドワード四世がセシリィ王女と王太子の婚姻を望まない場合は、彼女の持参金を年賦で全額返還すると申し出た。リチャードはこの条件に同意した。



一方、オルバニィ公は王位の要求を放棄し、ジェイムズ三世に自らの所領と地位の回復を約束させ、満足した。……翌1483年には再び私権剥脱され、イングランドと協定を結ぶことになるのだが。



リチャードは軍を引き揚げ、ベリックで軍の大半を解散した(8月12日)。これは、軍事費の増大を懸念したためと考えられる。イングランド国内では、遠征のための税負担に対する反発が、出陣前に既にかなり強くなっていたようだ。残った部隊によりベリック城砦の包囲が続けられ、8月24日に城砦は陥落した。



このベリックの奪還が大規模なスコットランド遠征のほとんど唯一の成果であり、遠征は失敗に終わった。
しかし、(一時的に)首都エディンバラを制圧下においたこと、スコットランドに対しイングランド軍の優位を示したこと、そして、国境の要衝(ベリック)を奪還したことで、エドワード四世は満足したようだ。ベリックの奪還は、その維持のために、更なる出費を必要とするものではあったが。
遠征の失敗は、主としてエドワード四世の外交上の失策と考えられ、グロースター公の戦功は評価された。



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ばら戦争関係地図 powered by Google Maps API Ver. 2

Google Maps(Googleマップ)を使って、ばら戦争の関係地図を作ってみた。



ばら戦争関係地図
URL : http://richardiii.web.fc2.com/map_wars_of_the_roses.htm



ばら戦争の(日本語の)地図は、Web上では見たことがないので、ずっとサイトに掲載したかった。Googleマップだと、マウス・ドラッグで簡単に移動ができ、拡大・縮小も自由。更に、地図と衛星写真の重ねあわせもできる。魅力的。
ただ、自分には敷居が高いな、と思っていたのだが、一念発起して(笑)作ってみた。



地図上のマーカーをクリックするか、リストの名前をクリックすると、吹出しがでて、古戦場名や地名、日付、一部ではWebサイトへのリンクが表示される。



あちこちのサイトを参考にさせていただき、試行錯誤の上、何とか設置できた。
途中、IEで見れなくなったりもしたが(FirefoxやOperaだと問題なくてもIEだとエラーが出たりする)、おおむね希望通りの設定にできた。ので、とりあえず満足。



ただ、IE(Windows)での動きが、FirefoxやOperaと比べて悪いのが気になる。
吹き出しの中に、縮尺を大きく(ズーム)できるようにリンク(Java Script)をつけたのだが、一度ズームした状態で他の場所をクリックすると、ちゃんと表示されないことが多い。地図左の縮尺調整用コントローラーで縮尺を変えるか、初期表示に戻すかすると、きちんと表示されるのだが。



◇ 参考にさせていただいた主なサイト





↑ いずれも、2006年4月からの新バージョン(Version 2)に基づいて解説なさっていて、大変参考になりました。ありがとうございました。
その他、こちらも参照↓





【参考Link追加】 





座標は分からないので、書籍(主に『ばら戦争(オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』)やWeb上で見つけられた古戦場の地図と、現在のUKの地図(他の地図サイト)とを照らし合わせ、視認でマッピング。リストの古戦場すべてのマッピングは無理かも知れないと思ったが、探すと結構、地図が見つかり、全部マッピングできてしまった。



縮尺を変えると、何故か、位置がずれてしまったりするのだが(マーカーの先端が川の反対側になったり)、一応、極端な間違いはないと思う。
いや、ロンドン塔がテムズ川に浮かんでいる(笑)のは極端か。



古戦場の場所は、建造物と違い、ピンポイントで指し示すことのできるものではないので、枠線で囲めばよかったかと、後で思いついた。公式サイト(英語)のココ(Custom Overlays)にやり方が書かれているようだが、何だかややこしそう。16箇所あると考えるとくらくらする(笑)。
とりあえず今のままで良しとする。



古戦場の場合、サテライト・モードにしても、野っ原が見えるだけだったりして、いまひとつ面白みに欠けるのだが、そのうち、城砦の場所もマッピングしてみたい。とりあえず、ロンドン塔だけ掲載した。
城くらい大きいものだと、廃墟になっていても、サテライト・モードで確認できて面白い。もっとも、土塁しか残っていなくて周囲に目印になるものがないと、何がなにやら分からないが。


Copyright(C)since2005 白い猪亭


ばら戦争 3

戦名の後に勝った陣営を記載した
ヨークはヨーク、ランカスターはランカスター



[ 第1期(1455-1464)第2期(1469-1471)第3期(1485-1487) ]



* ばら戦争関連地図(Google Maps使用)
 URL : http://richardiii.web.fc2.com/map_wars_of_the_roses.htm





第1期(1455-1464)  >>参照:リチャード三世略史1 ―幼少期・第1次ばら戦争―



1455.5.22 第1次セント・オールバンズの戦 St. Albans I ヨーク
ヨーク3代ヨーク公リチャード挙兵→勝利
ランカスター2代サマセット公エドマンド・ボーフォート(サマセット伯ジョン・ボーフォートの3男、ジョン・オブ・ゴーントの孫)戦死 2代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー戦死 8代クリフォード男爵トマス・クリフォード(ノーサンバランド伯の甥)戦死
ヨークヨーク公はイングランド武官長(Constable of England)に、ウォーリック伯リチャード・ネヴィル(ヨーク公妃の甥)はカレー総督に就任 
ヘンリー6世の精神病再発に伴い、ヨーク公が保護卿 (護国卿, 事実上の摂政)に再就任(1455.10)
ヘンリー6世回復→ヨーク公、保護卿解任(1456.2)
1459.9.23 ブロア・ヒースの戦 Blore Heath ヨーク
ランカスターヘンリー6世妃マーガレット派兵
1459.10.12 ラドフォド・ブリッジの戦 Ludford Bridge ランカスター
ヨークウォーリック伯がカレーから送った分遣隊の指揮官アンドリュー・トゥロロープ、部下と共に国王軍に寝返る
ヨークヨーク公、アイルランドに敗走
ヨークソールズベリ伯リチャード・ネヴィル(ヨーク公妃の兄)、その嫡男ウォーリック伯リチャード・ネヴィル、およびヨーク公嫡男エドワード(マーチ伯)は、カレーに逃亡
ヨークヨーク公妃セシリィ・ネヴィル、年少の子供達(マーガレット、ジョージ、リチャード)と共に捕らえられ、幽閉される
1460.7.10 ノーサンプトンの戦 Northhampton ヨーク
ヨークウォーリック伯、ソールズベリ伯およびマーチ伯エドワードと共に、カレー守備隊を率いてイングランドに上陸(6.26)→ロンドンに入場(7.2)
ヨークウォーリック伯勝利
ランカスターヘンリー6世捕らえられる 王妃マーガレットと王太子エドワードは、北部へ逃亡
ランカスター初代バッキンガム公ハンフリー・スタフォード(2代バッキンガム公の祖父)戦死
ヨークヨーク公妃と年少の子供達、解放される
ヨークヨーク公、アイルランドから帰還(1460.9)→ロンドンに入場(1460.10)
ヨークヨーク公、保護卿に就任 ヘンリー6世没後は、ヨーク公が王位を継承することを議会が承認(1460.10)
1460.12.30 ウェイクフィールドの戦 Wakefield ランカスター
ランカスターランカスター軍が王妃マーガレットの下に結集
ヨークヨーク公、ロンドンにウォーリック伯を残し北部へ向かう
ヨークヨーク公戦死 ヨーク公3男エドマンド戦死 ソールズベリ伯処刑
1461.2.2 モーティマーズ・クロスの戦 Mortimer's Cross ヨーク
ヨークヨーク公嫡男マーチ伯エドワード(ヨーク公位を継承)、ウェールズ辺境で軍を起こす
ヨークエドワード勝利→ロンドンに進軍
ランカスターオーウェン・テューダー(後のヘンリー7世の祖父)処刑
1461.2.17 第2次セント・オールバンズの戦 St. Albans II ランカスター
ランカスターランカスター軍南下、ロンドンを目指す
ヨークウォーリック伯、ロンドンから行軍しランカスター軍と対戦
ランカスター王妃マーガレット、ヘンリー6世を奪還するが、ロンドンへ入場できずに王太子と共に北部へ逃亡
ランカスターサー・ジョン・グレイ(エリザベス・ウッドヴィルの最初の夫)戦死
ヨークヨーク公の子息ジョージとリチャード、ブルゴーニュ公国へ亡命
ヨークエドワード、ウォーリック伯と合流し、ロンドンに入場(2.26)、軍勢を整える→ランカスター軍を追跡
1461.3.28 フェリーブリッジの戦 Ferrybridge ランカスターヨーク
1461.3.29 タウトンの戦 Towton ヨーク
ヨークヨーク公嫡男エドワード勝利
ランカスター3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー戦死
ランカスターヘンリー6世、王妃マーガレット、王太子はスコットランドへ逃亡
ヨークジョージとリチャード、イングランドに帰還(6.12)
ヨークエドワード4世戴冠(6.26)
1464.4.25 ヘッジリー・ムアの戦 Hedgeley Moor ヨーク
ヨークモンタギュー卿ジョン・ネヴィル(ウォーリック伯の弟)指揮下のヨーク軍、ランカスター軍と衝突
1464.5.14 ヘクサムの戦 Hexham ヨーク
ヨークモンタギュー卿、ランカスター軍を攻撃
ランカスター3代サマセット公ヘンリー・ボーフォート処刑 ランカスター派ほぼ壊滅
ランカスター1465年、ヘンリー6世は捕らえられ、ロンドン塔に幽閉される



第2期(1469-1471)  >>参照:リチャード三世略史1 ―少年時代・第2次ばら戦争―



1469.7.26 エッジコートの戦 Edgcote ランカスター
ランカスターウォーリック伯とクラレンス公ジョージが反乱を教唆
ヨークペンブルク伯ウィリアム・ハーバート処刑、デヴォン伯ハンフリー・スタフォード処刑
ヨークリヴァーズ伯リチャード・ウッドヴィル(エドワード4世妃エリザベスの父)処刑、ジョン・ウッドヴィル(エドワード4世妃の弟)処刑
ヨークエドワード4世、行軍中にオルニィで捕らえられるが9月には釈放される→ロンドンに帰還
1470.3.12 ルーズコートの戦 Losecoat  ヨーク
ランカスターランカスター派の反乱(ウォーリック伯が教唆)
ヨーク国王軍、反乱を鎮圧
ランカスターウォーリック伯とクラレンス公、フランスへ亡命→ヘンリー6世妃マーガレットと協定を結ぶ
ランカスターウォーリック伯、クラレンス公と共にイングランドに上陸(1470.9) オクスフォド伯ジョン・ド・ヴィア同行
ヨーク国王軍敗退→エドワード4世、グロースター公リチャードと共にブルゴーニュ公国へ亡命(1470.10)
ランカスターウォーリック伯、ヘンリー6世を復位させる
1471.4.14 バーネットの戦 Barnet ヨーク
ヨークエドワード4世、グロースター公リチャードと共にイングランドに上陸(3.14)
ヨーククラレンス公、エドワード4世と和解し、国王軍に加わる(4.3)
ヨークリチャード初陣
ランカスターウォーリック伯戦死 モンタギュー侯戦死 オクスフォド伯敗走→フランスへ脱出
ヨークエドワード4世復位
1471.5.4 テュークスベリの戦 Tewkesbury ヨーク
ランカスターヘンリー6世妃マーガレット、王太子エドワード、イングランドに上陸(4.14)
ランカスターヘンリー6世王太子エドワード戦死 ヘンリー6世妃マーガレット捕らえられる
ランカスター4代サマセット公エドマンド・ボーフォート処刑
ランカスターまもなくヘンリー6世が殺害される



第3期(1485-1487)



1485.8.22 ボズワースの戦 Bosworth テューダー
ヨークリチャード三世敗死
ヘンリー七世即位
ヘンリー七世、エリザベス・オブ・ヨークと結婚
(1486.1)
1487.6.16 ストーク・フィールドの戦 Stoke Field テューダー
ヨークシムネルの反乱
ヨークリンカン伯ジョン・ド・ラ・ポール戦死 ラヴェル子爵フランシス敗走


関連地図 : England during the Wars of the Roses [1445-1485]
 From "The Public Schools Historical Atlas" by Charles Colbeck, 1905.
 Perry-Castañeda Library Map Collection - Historical Maps より (テキサス大学オースティン校のサイト)



素材提供:Mako's


Copyright(C)since2005 白い猪亭


ばら戦争 2

長くなったので記事を分割します


【ばら戦争の名前の由来】



一般には、ランカスター家が赤ばら ヨーク家が白ばら 徽章紋章ではない)として戦ったために「ばら戦争」と呼ばれたと言われている。
が、この名称が用いられるようになったのは後世になってからだと考えられている。


『英国王室史話』(森護 著)では、ウォルター・スコットが小説"Anne of Geierstein or The Maiden of the Mist"(1829)の中で"....in the wars of White and Red Roses"と書いたことに由来する、と書かれているが定かではない
追記(2006.4.8):『世界歴史大系 イギリス史(1) 先史~中世』(山川出版社)でも、「ばら戦争」の名前を最初に使ったのは、ウォルター・スコットだと書かれている。
どうやらこれが定説らしい(他にもそう書いてある書籍を数冊みつけた)。


【赤ばら・白ばらの徽章―赤ばらはランカスターの徽章なのか?】


ヨーク家は確かに白ばらを徽章(バッジ)として用いていた。
一方、ランカスター家は、徽章として赤ばらも用いたようだが、それが主な徽章ではなかったらしい。白鳥を用いていたという記述も見たことがあるが、もしかすると、白鳥はランカスター家の徽章でなくヘンリー4世もしくは5世もしくは6世の個人の徽章かもしれない(もし、3名の王が全員白鳥を用いていたならば、白鳥はランカスター家の徽章なのだろうが)。ランカスター家がどのような徽章を用いていたのか、私は確実な記述を見つけられないでいる。


しかし、ランカスターの徽章として赤ばらが連想されるようになったのは、テューダー朝初代のヘンリー7世が、紅白のばら(テューダー・ローズ)を採用したためだと考えられている。


ランカスターの傍系であるヘンリー7世は、ヨーク家のエリザベス(エドワード4世長女)と結婚し、ランカスター・ヨーク両家の合一の象徴として、紅白のばらを用いた。
このテューダー・ローズ(ユニオン・ローズとも呼ばれる)は、現在の英王室でも使われており、エリザベス女王の紋章の台座(コンパートメント)にもテューダー・ローズが描かれている。 ↑ の画像は白黒





◇ テューダー・ローズの壁紙



左の画像は、Victoria & Albert Museum 所蔵の壁紙である。王冠を戴いたテューダー・ローズや落とし格子が描かれている。
Augustus Welby Pugin (1812-1852) により、国会議事堂(正式名称はウェストミンスター宮殿。1834年の大火で大半が焼失した)の再建の際にデザインされた壁紙の一つらしい。1847年の作。
Produced by Samuel Scott for J.G.Crace との解説がある。



このテューダー・ローズは、外側の花弁が赤、内側の花弁が白のパターン。テューダー・ローズには、この逆のパターン(外側が白、内側が赤)のものや、一つのばらの左右が紅白に分けられたものもある。
落とし格子はボーフォート家(ヘンリー七世の母方)のバッジであり、テューダー朝初代のヘンリー七世は、バッジの一つとして王冠を戴いた落とし格子を用いていた。



LINK : Wallpaper > Design Reform (Victoria & Albert Museumより) : 下方にこの壁紙の画像がある。





【追記】 2006.4.2



英王室公式サイトで、女王陛下の紋章のカラーの図を見つけた。
が、この図では、コンパートメントのばらは、紅白のテューダー・ローズではなく赤ばらになっている。
 >>The Royal Arms of Her Majesty The Queen



【追記 2】 2006.4.8



《ランカスターの赤ばらについて》



psyさんの情報(詳細は下記のコメント欄)によると、「ランカスター家が赤い薔薇を使ったという証拠は戦争最末期まで見られない。」(ばら戦争―装甲騎士の時代 オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)そう。



ちなみに、『世界歴史大系 イギリス史(1) 先史~中世』(山川出版社)では、

テューダー家のヘンリ七世が自派の記章として赤バラをもちい

と書かれ、



図説 イギリスの歴史』(指 昭博 著)では、

赤いバラは、[ ヘンリー七世が ]自らランカスタの記章として定めた

と書かれている([ ]内は秋津羽による補記)。
つまり、ヘンリー・テューダーが、赤ばらを「ランカスターの徽章として」使い始めて、即位後に、ヨークの白ばらと合せてテューダー・ローズを作り、ランカスター・ヨークの合一の象徴としたということか?
むむ、あり得る話ではあるが。



一方、『英国王室史事典』(森 護 著)には、ヘンリー四世は赤ばらをスタンダード(軍旗)とバッジ(徽章)に用いた記録があり、ヘンリー五世も赤ばらをバッジに用いた、との旨、書かれている。



その他にも、初代サマセット公ジョン・ボーフォート(ジョン・オブ・ゴーントの孫、ヘンリー・テューダー=ヘンリー七世の祖父)が最初に赤ばらを用いたとか、エドワード一世が"金のばら"を用いて、初代ランカスター伯エドマンド(エドワード一世の弟)が赤ばらを用いた、とか、諸説あるようだ。
でも、初代ランカスター伯エドマンドは、いくらなんでも遡りすぎだと思う……
また、初代サマセット公ジョンが先に用いていたら、ランカスターの本家は採用しないのではないだろうか。傍流のボーフォートが使っているものをランカスター王家が使いはしないでしょう。逆ならばともかく。ちなみに、ボーフォート家の徽章として有名なのは「落とし格子(Portcullis)」である。



つまりは、ランカスターの赤ばらの起源はわからない!
個人的には、「ヘンリー・テューダーが使い始めた」説に一票。

ばら戦争 Wars of the Roses (1455-1487) 1

ばら戦争は、15世紀後半、百年戦争終結後のイングランドで、約30年にわたり断続的に繰り広げられた内乱である。
プランタジネット王家の一族であるランカスターヨーク両家の王位継承争いに貴族達が加わり、国内を二分する勢力争いとなった。


英語では"Wars of the Roses"という。"War"ではなく、"Wars"と複数形だ。「ばらの(複数の)戦争」の意味である。
30年にわたる戦争と言われると、その間ずっと戦闘が続いていたような印象をうけるが、そうではなく、実際に戦闘が行われた期間は合計して3-4ヶ月程度に過ぎない。


この内乱によって、ランカスター家を破って政権を握ったヨーク家が、今度はテューダー家(ランカスター家傍系)により王位を追われた。
貴族達は深刻な打撃を被り、多くの家系が廃絶した。このため、ばら戦争終結後、貴族達の所有していた家産はテューダー王家の手中に集められ、王権が強化されて、イングランドは絶対主義時代へと移行していく。しかし、その割には、内乱による町や建物の破壊は少なく、一般民衆の被害は多くはなかったと言われる。


ばら戦争は大きく3期に分けられる。
*ボズワースの戦(1485)をばら戦争の終結とすることも多い


  • 第1期(1455-1464):第3代ヨーク公リチャードの挙兵~ヨーク朝(エドワード4世政権)樹立

  • 第2期(1469-1471):ヨーク派大貴族ウォーリック伯の反乱~ランカスター朝ヘンリー6世の一時復位~エドワード4世の復位

  • 第3期(1485-1487):ボスワースの戦(リチャード3世敗死)~テューダー朝樹立(ヘンリー7世即位)~シムネルの乱鎮圧

>>ばら戦争 2 : 名前の由来 および 赤ばら・白ばらの徽章



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