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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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ヘンリー六世はフランス語を話せたのか否か

以前に当ブログのコメント欄で、「ヘンリー六世は英語しか喋れなかった」説で盛り上がったことがある。



問題になったのは、エドマンド・キング Edmund King 著『中世のイギリスMedieval England)』における記述。

みのむしさんがコメント欄で引用してくださっているが、こちらにも該当部分を記載する。



[ヘンリー六世とマーガレット・オブ・アンジューの] 結婚式は一四四五年四月二三日に執り行われ、その直後、七月にフランスから使節が到着した。会談の雰囲気は暖かく誠実なものであり、その様子は、フランス側の一人が記した日記に詳細に描かれている。まず儀礼的な挨拶がなされ、その後、王は、


前述の使節たちに近づき、自分の帽子に手をやり、頭からそれを取り、二度か三度フランス語でこう言った。「聖ヨハネ、ありがとう」、「聖ヨハネ、ありがとう」と。それから、一行の一人ひとりの背中を軽くたたき、さまざまな形で喜びの気持ちを示し、前述のサフォーク伯を通じてフランス側一行に、彼らは自分にとって見知らぬ他人ではないと知らせたのである。


これは心地よい描写であるが、とりわけサフォーク伯が通訳を務めていたと言う記述が興味深い。このイングランド王は、フランス王位を要求していながらフランス語を話せなかったのである。


『中世のイギリス』より []内は秋津羽が記載





このイングランド王は、フランス王位を要求していながらフランス語を話せなかったのである。

と、しっかり書かれているが……中世のイングランド国王がフランス語を全く話せない、などということが、果たしてあるのだろうか?得意・不得意はあるにしても、当時の王族の教養として、子供の頃から学ばされているのでは?



この記述に関しては、Leiさんから示唆に富むコメントをいただいた。



「王は、前述の使節たちに近づき、自分の帽子に手をやり、頭からそれを取り、二度か三度フランス語でこう言った。「聖ヨハネ、ありがとう」、「聖ヨハネ、ありがとう」と。それから・・・」

の部分ですが、これは、時々Henryの人に対する様子として、別の機会にも記述されていたりすることに似通っているので、多分、フランス人使節たちには「やっぱり・・・ちょっと変」みたいな印象が残ったと思います。つまりここで気が付くのは、この時点ですでにHenryのinsanityの兆候があるということです。

(中略)

Wiiliam de la Pole(秋津羽注:サフォーク伯)について書かれている部分は、彼がこういう立場にあったという確認。そして、彼が通訳をしていたのは、言語的に問題ではなく、Henryのincommunicativeな部分を補佐する役割だったと考える方が自然だと思います。私は原文を読んでないので分かりませんが、解釈が分かれると思うのは

「このイングランド王は、フランス王位を要求していながらフランス語を話せなかったのである」の一文。この日本語を読めば誰でもHenry VIがフランス語が話せない、フランス語能力がない、と解釈するとは思いますが、こういう場合、では原文はどう書かれていただろうか、と推測しますと、たとえば、

he couldn't even speak French though he claimed to the throneとか

in spite of this English King's claim to the French throne, he could not even speak a word in Frenchとか・・・まぁいろいろと考えられますが、ここは、著者がある意味面白く書いたというか衝撃的に書いた部分で、解釈のしようによっては、自分の馴染んだフランス語でさえ一言も喋ることが出来ない状態だった、ともとれるのではないかと思いました。






原文がどう描かれているのか気になったのだが、Amazon.com でも Google Books でも内容のプレビューは見れなかった。そのまま放置していたのだが、つい先日、 Google Books で裏技的なやり方(と言っても大したことはないが)を試してみたら、なんとか該当部分の記述がわかった。



どうやったかというと

1.Google Books でスニペット表示のある版を選び、

2.適当な単語を検索欄に入力して該当部分を見つけ、

3.更に該当部分の文章の一部を検索欄に入力して、前後の文章を表示させ、

4.それを繰り返す

この方法で短い文章なら見つけられる、こともある。うまくいけば。複数の版がある場合は、異なる版でも試してみるのが吉。



さて、該当部分の原文は以下の通りである。



The marriage took place on 23 April 1445, and soon thereafter, in July, an embassy arrived from the French. The atmosphere of the meeting was cordial, well described in a journal kept by one of the French party. Formal speeches were made and then the king



came to the said ambassadors, and putting his hand to his hat and raising it from his head, he said two or three times, 'Saint Jehan, grant mercis' ; Saint Jehan, grant mercis' ; and patted each one on the back, and gave very many indications of joy, and caused them to be informed by the said earl of Suffolk that he did not consider them as strangers



This is a pleasant vignette and interesting not least in the statement that the Earl of Suffolk served as interpreter. The English king, though he claimed the French crown, had no French.



問題は次の一文。



The English king, though he claimed the French crown, had no French.



"The English king (中略) had no French" とは?
フランス語が全くわからなかった。フランス語の知識がなかった。と訳すべきなのだろうが……ひょっとして、フランス人の家臣がいなかった、と訳すことも可能なのだろうか?
わ、わかりません……どなたか、ご教示いただけますと幸いです。



とりあえず、この原文が「(ヘンリー六世が)フランス語が全くわからなかった」という意味だったとして、それを文字通り受け取ってよいかどうかというと、疑問が残る。
読者の興味を引くように、あえてキャッチーで刺激的な書き方をしているのでは?Leiさんもその可能性を指摘されていたけれど。



この本自体、中世史学の教授が執筆し、慶応大学出版会から翻訳の出された、図版が多く、当時の文書の引用もある、見た目のしっかりした単行本で、一見固い本のように感じられるのだが……実際はそうではないのではないか。訳者あとがきには次のように書かれている。

翻訳では日本語がすこし固くなったかもしれませんが、原著の英語は非常にくだけたものです。本書は、これまで二度再販され、ポケット版で出版されていることからもわかるように、イギリスの一般の読者によって広く読まれており、また大学においても学部学生の中世史の入門書として使用されているものです。

「クラレンス公ジョージがマルムジー・ワインの樽で溺死させられた」説への言及といい、どうも、原書はかなりくだけた内容のような気がする。



はっきりした根拠はないのだけれど(汗)、ヘンリー六世はフランス語を話せたのではないかと思う。フランス語とラテン語は、子供のころからある程度やらされた筈、と思う。



ちなみに、トロント大の Department of English の サイトに次のような記述がある。Leiさんに教えていただいた。ありがとうございました。



Throughout the middle ages it was common for native English speakers to be fluent in French as a second language.

French as a Mother-Tongue in Medieval England より


中世を通じ、英語を母語とする者が第ニ言語としてフランス語に堪能なのは一般的なことであった。

[秋津羽訳]





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ヘンリー六世と、妃マーガレット・オブ・アンジューの出会いについての気になる話

福田恒存氏の『私の英国史―空しき王冠』の記述について、みのむしさんから、次のような気になるコメントをいただいたので、ちょっと調べてみた。



「私の英国史」内に気になる引用がありまして、ヴェネツィア公使の手紙に『ヘンリー6世が従者のふりをして、イングランドに到着したマルグリット王妃に手紙を渡しに行った(サフォーク公同伴で)』という内容のがあって「ちょwwwwwアンリくん意外とアクティヴwww」と思ったのですがここで気になる疑問が

・国王陛下がそのような行動をとることって当時のヨーロッパではよくあることだったのか

・手紙でわざわざ報告してるくらいだからやっぱり当時でも稀な出来ごとだったのか

ということで、というかなんでわざわざ陛下おん自らお出ましになる必要が 事前にマルグリットが美人だと聞いていて自分の目で確かめたくなっちゃったのか?

女に目が無いシャルル叔父さんでもそこまでしないぞ?と彼の行動について大変疑問に思えてきました。



問題の記述は下記の通り。やや長いが、該当部分を引用する。


以下、御報告致したきは、イングランドの后の偉大さとその后がイングランドに連れて来られた経緯にございます。まづはさるイングランド人よりの伝聞を御披露申し上げたく、
(中略)
后がイングランドに上陸するや、王は騎士の従者に身をやつし、同行のサフォーク公にも同じ身装(みなり)をさせ、后の許に手紙を携へ行き、イングランド王自ら認(したた)めし手紙と恭しく言上せし由、承りました。后が手紙を読む間、王はその様子を十分に観察し、女といふものは手紙を読んでゐる時こそ、能くその真価がわかると仰せられしとの事、一方、后は当の相手が王であることに少しもお気づきにならず、それも、専ら手紙に心を奪はれをられし故にて、従者に身をやつし、終始跪きをりし王には一瞥もお与えにならざりし由、聞き及びをります。王が立ち去りし後、サフォーク公には、「お后、どうお思ひになります、その手紙を持参しましたあの従者を?」とお訊ねになりましたところ、后のお答は、「その従者とやらには気付かなかった、あれの持って来た手紙を読むことに心を奪はれてをりましたから。」公爵、答へて曰く、「お后、かの従者に身をやつしていらした方こそ、紛れもなきイングランド王にございます。」后は事の真相を知らなかったことに甚だ心を痛められた由、と申すは、后は王を跪かせたままにしておいたからにございます。

(ヴェニス公使、ラファエロ・デ・ネグラの手紙)





ヘンリー六世妃マーガレット・オブ・アンジューがイングランドに到着したのは1445年である。
1444年11月に、サフォーク侯ウィリアム・ド・ラ・ポール(後にサフォーク公)を大使とする使節が、マーガレットを迎えにフランスに渡り、マーガレットは1445年3月2日に使節と共にイングランドへ出発した。イングランド到着は3月または4月と思われる。

ヘンリー六世とマーガレットの結婚式は、同年4月22日に、New Forest の Titchfield Abbey で挙行された。



ヘンリー六世が、身をやつして妃を見に行ったというのは、話としてはとても面白い。だが、個人的には眉唾だと思う。周りの者に全力で止められそうな気がする。

てか、サフォーク公(この時はサフォーク侯)にも従者の格好をさせる必要がどこにあるんだ?マーガレットはサフォーク侯の顔を良く知っていた筈。怪しまれると思うけれど。

そもそも、サフォーク侯がマーガレットを連れて来たんじゃないの?迎えに行ったのに、自分だけ先に帰ってこないでしょ。
なんだか凄く怪しい。

「さるイングランド人よりの伝聞」というのも何だかなー。氏名不詳の情報提供者からの伝聞ということでしょう。しかも、実はこの報告は、かなり年数が経ってからのものだということが分かった。





この手紙を書いたという「ヴェニス公使ラファエロ・デ・ネグラ」については、寡聞にして知らない。だが、Googleで Raffaelo de Negra "Henry VI" で検索すると、気になる文章が2件引っかかってきた。



1つ目はこれ。要約は後で記載する。



Raffaelo de Negra to Bianca Maria Visconti, Duchess of Milan, October 24, 1468. The ambassador was not writing from his own observation but reporting the observations of an anonymous English informant.



元の論文はこちらだが、契約しているか、有料で購入しないと本文は読めない。

Reflections of Power: Margaret of Anjou and the Dark Side of Queenship(pp. 183-217) by Patricia-Ann Lee



もう一つはこれ。フランス語。要約は後で記載。



La seule source qui détaille la première rencontre entre Marguerite et Henri VI est constituée par le récit d'un ambassadeur milanais, Raffaelo de Negra. Inséré dans une lettre adressée à Bianca Maria Visconti, duchesse de Milan, datée du 24 octobre 1458, ce récit est postérieur de ...



元の論文はこれ。こちらも本文は有料。

Du consentement à l’affectio maritalis : quatre mariages princiers (France-Angleterre, 1395-1468) by Manuel Guay



私はフランス語は読めないので、2つ目の文章は仏→英の機械翻訳の助けを借りた。

キーワードが同じ(Raffaelo de Negra、Bianca Maria Visconti, Duchess of Milan、October 24、ambassador)なので、1つ目の英語論文と同じことを記述しているのではないかと思ったが、手紙の年度が違う(日付は同じ)。1458年と1468年。

これは、1468年が年代間違いで、正しくは1458年なのだと思う(根拠は後述)。



とりあえず2つ目の文章を要約すると、

マルグリット(マーガレット)とヘンリー六世の最初の出会いについての詳細な記述は、ミラノ大使 Raffaelo de Negra によるもののみ。彼が、ミラノ公妃(女公) Bianca Maria Visconti (1425年3月31日 - 1468年10月28日) に宛てた1458年10月24日付の手紙に記載されている。
というところか。



Raffaelo de Negra は、ヴェニス(ヴェネツィア)公使ではなく、ミラノの大使らしい。それとも、駐ヴェネツィアの公使/大使なのだろうか。
1458年の手紙ということで、13年後の報告である。

"La seule source" と書かれているから、他にソースはないのだろう。

やっぱり、この話は怪しいよ。



1つ目の文章には、2つ目の文章ほどの情報はない。

Raffaelo de Negra は、1468年10月24日に、ミラノ公妃(女公) Bianca Maria Visconti に [手紙 / 報告書を書いた] 。大使は、自分自身の見聞ではなく、匿名の英国人の情報提供者の見聞を報告した。

というところ。

おそらく1つ目の文章で書かれた手紙と同じ手紙なのではないかと思う(年代間違いの可能性―後述)。



[追記]

もう1つ論文(の断片)を見つけた。



Unfortunately, no eyewitness record of the events of
the private meeting between Henry and Margaret that occurred there has
survived
. In 1458, some thirteen years later, Raffaelo de Negra, a Milanese envoy, wrote to Duchess Bianca Maria Visconti of Milan that he had heard that Henry VI had dressed as a squire ...



超訳すると、

不幸なことに、ヘンリーとマーガレットの内々の会見の目撃者の記録は残されていない。1458年、およそ13年後に、ミラノ公使 Raffaelo de Negra がミラノ公妃(女公) Bianca Maria Visconti 宛てに、ヘンリー六世が従者(スクワイア)に扮して ... と聞いた、と書いた。



やはり、直接の目撃者の記録はなく、伝聞記録のみのようだ。



元の論文はこちら。本文を読むには契約か購入が必要。

Henry VIII's Greeting of Anne of Cleves and Early Modern Court Protocol (pp. 565-585) by Retha M. Warnicke



……追記ここまで……





他に何かないかと検索したら、Raffaelo de Negra の1458年10月24日付の手紙文(の英訳)が見つかった。ラッキー♪



Milan - 1458 | Calendar of State Papers and Manuscripts in the Archives and Collections of Milan (pp. 18-19) : British History Online



該当部分は次の通り。その他の部分をお読みになりたい方は、リンク先でどうぞ。



Raffaelo De Negra to Bianca Maria Visconti, Duchess of Milan.

I am writing to report what an Englishman told me about the magnificence of the Queen of England and how she was brought to England.
(中略)
When the queen landed in England the king dressed himself as a squire, the Duke of Suffolk doing the same, and took her a letter which he said the King of England had written. When the queen read the letter the king took stock (amirò) of her, saying that a woman may be seen over well when she reads a letter, and the queen never found out that it was the king because she was so engrossed in reading the letter, and she never looked at the king in his squire's dress, who remained on his knees all the time. After the king had gone the Duke of Suffolk said: Most serene queen, what do you think of the squire who brought the letter? The queen replied: I did not notice him, as I was occupied in reading the letter he brought. The duke remarked: Most serene queen, the person dressed as a squire was the most serene King of England, and the queen was vexed at not having known it, because she had kept him on his knees.
(中略)

Milan, the 24th October, 1458.



なお、上記の British History Online のサイトには、1468年10月24日に Raffaelo De Negra が Bianca Maria Visconti に宛てた手紙はない。というか、1468年にイングランドからミラノ公国に宛てた手紙は載っていない。それ自体は別に不思議ではないが、同年の駐フランス大使からの手紙はミラノ公 Galeazzo Maria Sforza (Bianca Maria Visconti の長男)宛てになっていること、そして、Bianca Maria が1468年に病に倒れ10月には死の床にあったことを考慮すると、1468年10月に Raffaelo De Negra が Bianca Maria 宛てに手紙を出すとは思えない。

1468年というのは間違いで、1458年なのだろう。2つの文で言及された手紙は同一のものと思われる。



長々と書いたが、「ヘンリー六世が身をやつして妃を見に行った」というのは、噂に尾鰭がついたものに過ぎないと思う。というか、Raffaelo De Negraさん、ガセネタをつかまされたんじゃないでしょうか。





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エドマンド&ジャスパー・テューダーの英語に関する非学術的考察

エドマンド・テューダー (c1430-1456) とジャスパー・テューダー (c1431-1495) の兄弟、そしてエドマンドの息子ヘンリー・テューダー(後のヘンリー七世; 1457-1509)は、どんな言葉を話していたのだろうか。
掲示板でのみのむしさんのコメントに触発されて、超・適当な考察をしてみた。
全く学術的ではありません。「全然違うよ?」とか何かあれば、容赦なく突っ込んで下さい。よろしくお願いします。



1. エドマンド・テューダーとジャスパー・テューダー



2人ともイングランド生まれ(ハートフォードシャー Hertfordshire)。おそらく幼児期は父母の元で暮らしていたと思われる。



母のキャサリン・オブ・ヴァロアは、療養のため、1436年にバーマンジー Bermondsey の修道院に入った。彼女が病死したのが1437年1月。この時、エドマンドが7歳、ジャスパーが6歳(誕生日前であればそれぞれ6歳と5歳。こちらの可能性の方が高いと思う)。



父のオーウェン・テューダーは投獄され(後に釈放)、バーキング大修道院 Barking Abbey の女子修道院長キャサリン・ド・ラ・ポール(初代サフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールの姉妹)がエドマンドとジャスパーの面倒をみることとなった。



1442年の3月以降のいずれかの時点で、2人はバーキング大修道院から宮廷に移ったようだ。エドマンド12歳、ジャスパー11歳。ヘンリー六世は、2人に聖職者による教育を受けさせた。同時に軍事的訓練も受けさせた。
エドマンドがナイトに叙されたのが1449年(19歳)、リッチモンド伯に叙されたのが1452年(22歳)。同じ年、ジャスパーはペンブルク伯に叙された(21歳)。



以上、生まれてから成人するまで、2人ともずっとイングランドで過ごしている。宮廷に入る前も入った後も、聖職者に接する機会が多かったと思われる。ジャスパーがウェールズと関わりを持つのは後のことだ。
というわけで、エドマンドもジャスパーも、基本的にはイングランド人のようなアクセントの英語を話していたと推測。





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3代ヨーク公リチャード・プランタジネットとアイルランドの関わりについて

以前、みのむしさんに次のようなコメントをいただいた。





史劇の『リチャード3世』で気になった部分があったんですが、リチャードが「ルージュモントの城が云々」と言ってるところがありますよね?

アイルランド人に予言されていた、と台詞中にありましたが、何でもアリな劇はともかく史実のリチャード自身アイルランドと関わりを持っていたのでしょうか。
(中略)
リチャード3世のほうは敵のリッチモンド伯(自称)ハリィ・テュードゥルの出自はウェールズですし、アイルランドとの関連性なんて毛ほどもなかったはずではないだろうかと疑問に思ってます。



「ルージュモントの城が云々」は、第四幕 第二場のリチャード三世の台詞である。


Richmond! When last I was at Exeter,
The mayor in courtesy show'd me the castle,
And call'd it Rougemont: at which name I started,
Because a bard of Ireland told me once
I should not live long after I saw Richmond.



この史劇の台詞については、Leiさんが示唆に富むコメントをしてくださっている。Leiさん、ありがとうございました!



[追記]『NHKシェークスピア劇場 リチャード三世』(解説・補注:冨原芳彰)では、bard of Ireland に「アイルランドのケルト族の吟遊詩人.占いの能力があるとされた」と注釈がつけられている。
……追記ここまで……



史実でリチャード三世がアイルランドと関係があったかどうかは良く分からない(私の調査不足)。だが、リチャード三世の父、3代ヨーク公リチャード (1411-1460)は、アイルランドとの関わりが深い。
今回は、ヨーク公とアイルランドの関わりについて書こうと思う。





ヨーク公リチャードはアルスター伯でもあり、アイルランドに地所を持っていた。母方の叔父である5代マーチ伯エドマンド・モーティマーから継いだタイトルである。もっとも、他の所領も大きかった。



また、1447年にはヨーク公はアイルランド総督に任命された(はっきり言って、干されて飛ばされた)。もっとも実際に赴任したのは1449年の6月で、翌年にはイングランドに戻って来た。この時、妃のセシリィ・ネヴィルも一緒にアイルランドに赴いている。クラレンス公ジョージが生まれたのはこの頃である(1449年10月)。






その後、1450年と1452年にヨーク公は兵を集めてロンドンに向かったが、最終的には撤退した。これにより、ヨーク公の立場は非常に悪くなっていたが、1453年8月にヘンリー六世の精神疾患が明らかとなり、翌1454年にヨーク公は保護卿に就任し、有利な立場となった。だが、1455年にヘンリー六世が回復すると、その地位は奪われた。



そして、同年5月、ヨーク公は挙兵し、勝利を収めた(第1次セント・オールバンズの戦)。ばら戦争のはじまりである。もっとも、この時(戦のない長い時期をはさみ)30年にわたり戦が行われると考えた者はいなかっただろう。
この勝利の後、ヨーク公はイングランド武官長(Constable of England)に就任し、ヨーク公妃の甥ウォーリック伯リチャード・ネヴィル("キング・メイカー")はカレー総督に就任した。
また、ヘンリー六世の精神病再発に伴い、ヨーク公は保護卿に再就任したが、ヘンリー六世が回復したため、4か月ほどで解任された。
なお、ヨーク公は再び、アイルランド総督の地位に就いた。



1459年、王妃マーガレット・オブ・アンジューが派兵した(ブロア・ヒースの戦)。この戦はヨーク派が勝利したが、続くラドフォド・ブリッジの戦では、ヨーク派が敗れ、ヨーク公はアイルランドに逃亡した。この時、ラトランド伯エドマンドも同行した。ソールズベリ伯リチャード・ネヴィル(ヨーク公妃の兄)、その嫡男ウォーリック伯リチャード・ネヴィル、およびヨーク公嫡男エドワード(マーチ伯)は、カレーに逃亡した。議会において、ヨーク公とその支持者は権利を剥奪された。



なお、アイルランド議会はヨーク公を支持し、軍事的・資金的な援助を申し出た。アイルランド貴族は、ヨーク派というか、ヨーク贔屓が多く、ばら戦争の際は、アイルランドは基本的にヨーク家を支持していた。



翌1460年、ウォーリック伯は、ソールズベリ伯およびマーチ伯エドワードと共に、カレー守備隊を率いてイングランドに上陸。更に、ロンドンに入場した。その後、ヨーク派はノーサンプトンの戦に勝利し、国王ヘンリー六世を捕えた。王妃マーガレットと王太子エドワードは、逃亡した。



2ヶ月後、ヨーク公はアイルランドからイングランドに帰還。翌月、ロンドンに入場した。
同月に開催された議会で、前年に決議されたヨーク公および支持者の権利剥奪は無効とされた。
ヨーク公は保護卿に就任し(三度目)、更に、ヘンリー六世没後は、ヨーク公(およびその後継者)が王位を継承することを議会が承認した。ヨーク公の地位は安定したかのように見えたが、わずか2カ月後、ウェイクフィールドで敗死することとなった。





ちなみに、ヘンリー七世はアイルランドとの繋がりはなかった筈。なので、アイルランドの扱いには苦労したようだ。
ヘンリー七世治世に事実上アイルランドを統治していたのは、8代キルデア伯ジェラルド・フィッツジェラルドであるが、ストーク・フィールドの戦の際、彼はランバート・シムネルを支援した。



<おまけ>
クラレンス公ジョージは、エドワード四世戴冠後にアイルランド総督に任命された。が、何か仕事したかどうかは不明(笑)。少なくとも少年時は名のみの総督だったのは間違いないだろうけれど。



最終更新日:2011.5.6




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リチャード三世の非嫡出子

リチャード三世と妃アン・ネヴィルとの間には嫡出子が一人生まれた。エドワード・オブ・ミドゥラム(ミドルハム)である。その他にリチャード三世には3名(もしくは2名)の非嫡出子がいたとされている。



  • ジョン・オブ・グロースター (c.1470-1491/1499)

  • キャサリン・プランタジネット (-b.1487)

  • リチャード・プランタジネット  (1469-1550)


いずれも結婚(1472年)前の子供と考えられる。





1. ジョン・オブ・グロースター John of Gloucester (John of Pomfret) (c.1470-1491/1499)



もっともよく知られている非嫡出子。
彼は、1485年3月11日にカレー総督 Captain of Calais に任命された。しかし、それより前、1484年11月には既にカレーにいたことが知られている。
ヘンリー七世即位後の1486年に、年20ポンドの年金を認められた。しかし、アイルランドでの反逆行為に関与したとの名目で、1491年(1499年という説あり)に処刑された。処刑前の数年間は投獄されていたと考えられている。



2. キャサリン・プランタジネット Katherine Plantagenet (-b.1487)



生母は不明だが、Katherine Haute という侍女が母だという説がある。この説のもととなっているのは、当時の年金の記録と、リチャードの非嫡出子の一人の名前がキャサリンである点である。Haute 家はウッドヴィル家の親族である。

キャサリン・プランタジネットは、1484年5月以前(1483年?)に、ハンティンドン伯ウィリアム・ハーバート(c.1455-1491)と結婚した。なお、彼の最初の妻はエリザベス・ウッドヴィルの妹メアリである。リチャード三世はこの結婚の費用を全て出し、彼らに所領を与えた。彼女は1487年11月以前に亡くなった。二人の間に子供はいなかった。



3. リチャード・プランタジネット Richard Plantagenet (Richard of Eastwell) (1469-1550)



上記の2人の他に、リチャードという非嫡出子がいたと推測されているが、詳細は謎に包まれている。
彼については別記事 リチャード・プランタジネット(リチャード・オブ・イーストウェル)で。



最終更新日:2012.1.30




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