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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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王位継承者の呼称 皇太子と王太子


このブログでは、イングランドの王位継承者のことは王太子と記載している。
一般に皇太子という呼称が使われているので迷ったのだが、皇帝の世継ではなく、王の世継の王子なので、本来、王太子と呼ぶ方が正確だ。
("太子"だけで良いのかもしれないが)



そのため、ヘンリー六世の嫡男エドワードも、エドワード四世の嫡男エドワードも、リチャード三世の嫡男エドワードも(皆エドワードだ!)、王太子と記載することとした。「皇太子であるエドワード王子」というような今ひとつ落ち着かない(笑)表現をせずにすむので、個人的には非常にすっきりして良い。



同様に、皇太后ではなく、王太后という呼称を用いている。




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リチャード三世 略史 5

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―ヘンリー・テューダーのイングランド侵攻―

王妃アンの没後5ヶ月足らずの1485年8月、リチャード3世は、かねてから準備されていたリッチモンド伯ヘンリー・テューダーのイングランド侵攻に直面する。

8月1日、フランス国王シャルル8世の支援を受けたヘンリーは、傭兵を主体とする2,000人の軍を率いてアルフルール(セーヌ河口の港)を出航し、ウェールズに向かう。8月7日にミルフォード・ヘヴン近くに上陸し、行軍を開始。

テューダー家がウェールズの出身であり、また、ヘンリーの叔父ペンブルク伯ジャスパー・テューダーが以前ウェールズ南部を統治していたため、旧来の従臣やウェールズの有力ジェントリがヘンリーの下に集まった。4代シュルーズベリ伯ジョージ・トールボットと叔父サー・ギルバート・トールボットもヘンリーの軍に加わる。
更に、ヘンリーは、義父のスタンリー卿トマス、および、その弟サー・ウィリアム・スタンリーに援助を要請した。
8月11日、リチャード3世はヘンリー・テューダー上陸の報を受け、直ちに貴族たちに国王軍への参加を要請する。20日、リチャードはレスターに集結中の国王軍に加わり、翌21日に軍を率いて、ボズワース近郊のサットン・チェイニーに布陣した。
ヘンリー軍は、同日、国王軍の西側に陣を敷いた。

―ボズワースの戦 (1485年8月22日)―

8月22日早朝、レスターシャーのボズワース・フィールドで、国王軍とヘンリー・テューダー軍の戦闘が開始された。勝敗は2時間ほどで決したと言われている。
国王軍は計10,000~12,000人。うちリチャード3世自身の軍が2,000~3,000、ノーフォーク公軍1,200、スタンリー卿兄弟の軍3,000~5,000、ノーサンバランド伯軍1,200。
一方のヘンリー軍は約5,000名で、国王軍が人数において優っていた。

スタンリー兄弟は、側面の、国王の陣からもヘンリーの陣からも遠くない場所に布陣していた。しかし、戦が始まっても攻撃に移らず、戦場の北側の防衛線まで後退 した。ノーサンバランド伯も中立を決め込み、予備軍を動かさなかった。
リチャードの前衛部隊を率いていたノーフォーク公はまもなく危機的状況に陥り、戦死する。

ヘンリーは加勢を請うために、参戦を拒否していたスタンリー兄弟の陣へ向かった。リチャードはそれを阻止すべく、騎士達の小隊を率いてヘンリーに直接攻撃を試みる。リチャードはヘンリーの旗手を斃し、ヘンリーの間近に迫るが、スタンリー兄弟が軍を動かしヘンリーに加勢。リチャード3世は敵に取り囲まれ、"Treason! Treason! Treason! (裏切り、反逆)"と叫んで斃された。
リチャード3世は戦場で死んだ最後のイングランド国王となった。

知らせを聞いたヨーク市では、公式記録にこう書き記した。
慈しみ深くわれらを統べたまいしリチャード王は、むざんにも惨殺されたもう。われらの町の大いなる悲しみなり

リチャードの遺体は裸にされ汚辱を加えられた後、ボズワースの東のレスターに運ばれ、グレイフライヤーズ・アベイに埋葬された。しかし、この修道院はヘンリー8世の宗教改革で壊され、リチャードの墓も失われた。この時遺体はソア川に捨てられたという話が伝えられているが定かではない。
現在はボウ橋のたもとに、かつての埋葬地を示す標示が残るのみである。

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として王位に就き、エリザベス・オブ・ヨークと結婚。ばら戦争は一応終結した。

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リチャード三世 略史 4

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―国王リチャード I:戴冠~最初の反乱―

リチャード3世は戴冠式(1483年7月6日)の2週間後から各地を巡幸する。
王妃アンが途中で合流、その後、嫡男のエドワード・オブ・ミドゥラムも合流し、一行は8月末にヨーク市へ入場。9月8日にはヨーク・ミンスターで2回目の戴冠式(正規の式典ではない)を行い、嫡男エドワードをプリンス・オブ・ウェールズに叙した。
10月初旬、バッキンガム公が反乱を起こす。エドワード4世治世に失った所領の返還が認められなかったのが一因とされる。
大陸亡命中のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、反乱に加勢すべくイングランド上陸を試みるが、悪天候のためブルターニュ公国に引き返した。ヘンリーはランカスターの傍系ボーフォート家の血を引いており、ランカスターの後継者を名乗っていた。なお、6月に一時逮捕されたスタンリー卿は、ヘンリーの義父である。
この計画には、イリー司教ジョン・モートン(逮捕後、バッキンガム公の監視下にあった)が加わっていた。モートンは大陸へ逃亡し、その後もリチャード3世政権の転覆計画に関与する。

バッキンガム公の反乱はまもなく鎮圧され、公爵は捕らえられて、11月2日に処刑された。
この反乱と並行して南部で3つの反乱が起こるが11月半ばには鎮圧された。うち1つには、"王太后"エリザベス・ウッドヴィルの前夫との間の長男ドーセット侯トマス・グレイが関与しており、彼は大陸に逃亡した。
これらの反乱指導者の多くは南部の有力者だったため、王室府や南部地域の官吏に空位ができ、北部出身者が多く登用された。リチャードは北部の支持者への依存を強めることになる。

同年12月、ヘンリー・テューダーは王位継承宣言を行い、12月25日にはレンヌ大聖堂(フランス北西部)で、王位に就いた後にエドワード4世長女エリザベス・オブ・ヨークと結婚することを誓約する。

―国王リチャード Ⅱ:政権確立―

1484年1月、リチャード3世は最初で最後となる議会を開く。この議会で、リチャード3世の王位を承認する「ティトゥルス・レギウス Titulus Regius(王位継承法、王位承認法)」が正式に可決された。また、強制公債(強制献金 Benevolence)の禁止、保釈の権利、陪審員の強迫禁止などの法案が可決される。

政権はひとまず安定していた。3月には、"王太后"エリザベス・ウッドヴィルと娘達(エドワード4世遺児)は、ウェストミンスター・アベイの庇護所から出て宮廷に迎えられた。"王太后"は、長男のドーセット侯の追放解除をリチャード3世に願い出、ドーセット侯に手紙を書いて帰国を促している。

4月、リチャードとアン王妃がノッティンガム城にいた際、王太子エドワードがミドゥラムで急病のため死去する。リチャードは当初、9歳の甥ウォーリック伯エドワード(クラレンス公ジョージの嫡男)を後継者とするが、これは、ジョージと妃イザベル(アンの姉)の遺児を可愛がっていたアン王妃のためではないかと考えられている。翌年には、リチャードは、成人している甥のリンカン伯ジョン・ド・ラ・ポール(姉エリザベスの長男)を後継者に指名した。
もともと健康の優れなかったアン王妃は、1485年3月16日、王太子エドワードの死から1年足らずで28歳で死去する。毒殺の風評があるものの、死因は結核と考えられている。

―国王リチャード Ⅲ:政権崩壊―

リチャード3世の戴冠から1年、1484年7月に2件の反乱が計画された。これらは未然に防がれたが、10月末にはイースト・アングリアとカレーで2件の反乱が起こる。カレーの反乱では、ランカスター派最大の軍人貴族であるオクスフォド伯ジョン・ド・ヴィアが、捕らえられていた城から救出され、フランスに逃亡した。2件の反乱には関連があり、背後ではモートン・イリー司教が反乱を主導していた。

1484年10月の反乱に先立ち、リチャード3世はブルターニュ公国に亡命中のヘンリー・テューダーの引渡しを要求し、9月、ブルターニュ公はこの要求を受け入れた。しかしヘンリーはこの情報を知り、脱出してフランスに保護を求めた。11月にはフランス国王シャルル8世から、イングランド侵攻の援助の約束を取り付ける。>

12月、リチャードはヘンリーとその配下を非難する宣言書を発布。ヘンリーのイングランド侵攻予防のため、防衛に力を入れる。
このため軍事費が増大して財政困難に陥り、翌1485年2月には、前年の議会で禁止された公債の強制をせざるを得なくなった。これに反対した貴族・騎士・ジェントリにより、5月に反乱が起こる。フランス亡命中のヘンリーが反乱を支援した。

ヘンリー・テューダーは、1485年4月から6月までの間にイングランド侵攻の準備を整え、7月末には軍の集結を完了する。

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『Dickon』が届く(eBayで落札)

リチャード三世もののペーパーバックが欲しくて、とうとう海外ネットオークションのeBayに手を出してしまった……



Dickon
Dickon
Marjorie Bowen (マージョリー・ボウエン) 著
ISBN: 0006126707 ペーパーバック
Fontana; 1971年 (初出は1929年)
絶版
>>Amazon(米)で見る  >>Amazon(英)で見る

もともと探してはいたのだが、ペーパーバックの宣伝文を読んで、どうしても欲しくなってしまったのだ。


Sinister murderer - or patriot king?



From childhood exile in Flanders to his death on Bosworth Field, the life of Richard III is written in the blood of those he most loved.
Richard Warwick, his cousin, nicknamed 'Kingmaker' who betrayed Richard in his hour of need.
Ann Neville, his devoted wife, whom he tried in vain to shield from his enemies.
George Clarence, his beloved brother, who was seduced into treachery by his own lust for power.
This is a story of conflict, violence and heartache, at the centre of which stands Richard, belived by some to be ruthless murderer, by others to be Englands greatest King.



実はこの本について、私は思いっきり勘違いしていた。
Josephine TeyGordon Daviot名義で書いた戯曲 『Dickon (Hereford plays)』 (Heinemann Educ.; ISBN: 0435222201; 1966年; 絶版)と間違えたのである(苦笑)。



『時の娘』の作者ジョセフィン・テイは、本名エリザベス・マッキントッシュ(Elizabeth MacKintosh)。ミステリで有名だが、ゴードン・ダヴィオット(Gordon Daviot)名義で戯曲を書いている。『Dickon』はリチャード三世の戯曲。
テイは他にもペン・ネームを使っていたのかと早とちりした……



Marjorie Bowen(1886-1952)は、ホラー(というか怪奇小説?)やミステリ、歴史小説を書いていた小説家のようだ。ジョゼフ・シアリング(Joseph Shearing)というペン・ネームも使っていた。……ややこしい。



落札して、全て手続き終えて、到着を待っている間に気がついた。ずっと、Gordon Daviotの『Dickon』と、Marjorie Bowenの『Dickon』が同じものだと思って探していたよ。
全く後悔はしていないが、そのうち、ちゃんとGordon Daviotの『Dickon』を入手しよう。





今回、何故eBayに手を出してしまったかというと……



実はMarjorie Bowenの『Dickon』は、AbeやAmazon(米・英)で探せば"Good"や"Very Good"ならそう高くない値段で何点も見つかる。しかし、何せ30年以上前のペーパーバックなので、"Very Good"とあっても結構ボロっちい可能性が。



読みたいけどどうしようか、と思っていたら、eBayで表紙写真つきで安価で出品されていたのを、たまたま発見してしまった。
表紙、結構きれい(30年以上前のペーパーバックにしては)。UKの古書店らしい。取引件数も多く、評価も良い。いいなぁ。
終了まで日数があったので、時々覗いていたら、入札者は一名だけ。UKの人らしい。最終日、終了少し前に入札したらそのまま落札できてしまった。ヤタッ!
終了時刻がなぜかUKの早朝(日本時間の夜)だったのが、幸いしたかも。入札してた人ごめんねぇ。でもUKにいるならいつでも入手できるよ、きっと。



落札価格は£1.71。安いSurface Mail(船便)で送ってもらうつもりだったのだが、安く落札できたのと、Air Mailの送料+手数料が思ったより安かったのでAir Mailにしてもらう。
£1.71 + 送料・手数料(Air Mail) £3.45 計£5.16
出品者は海外発送にもなれているらしく、すぐに連絡がきて、PayPal(すでに口座は持っていた)で簡単に決済できた。
そして、1週間ほどで到着!やはりAir Mailは早い。
初eBayにしては大変スムーズにできた。……気をつけないとまた手を出してしまいそうだ。





【追記】 2005.11.15



『Dickon』を読み始めてから、20~34ページが脱落しているのに気がついた。その部分には緩みがあったのだが、読むまでは脱落には全く気がつかず。うーん。
それ以外は(30年以上前のPBの割に)状態は良い。

とりあえずSellerにご報告。
すぐに「良ければ£1.71 Refundしますが、どう?」というメールが来たので、ありがたくRefundをお願いした。のだが、良く考えたら£1.71って落札価格そのものではないか。なんか申し訳ないような気がするが、ページの脱落を知ってたら落札しなかったしなあ。
SellerはすぐにRefund手続きをしてくれた。ありがとう!



【追記 2】



2006年4月、Gordon Daviot(Josephine Tey)の『Dickon』をAbebooksで入手♪
 リンク : ジョセフィン・テイの『Dickon』を入手!




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リチャード三世 略史 3

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 >>関連記事 : リチャード三世の戴冠

―エドワード4世の崩御―

1483年4月9日、エドワード4世は41歳の誕生日を前に、病のため死去した。2日後、国王評議会(Council)は12歳の王太子エドワードの国王即位宣言(エドワード5世)を行う。リチャードも評議会の一員であるが、この時は北部の所領におり出席していない。
エドワード4世は遺言により、グロースター公リチャードを未成年の新国王の摂政保護卿, Lord Protector)として指名していた。しかし評議会は、エドワード4世妃(王太后となる)の親族ウッドヴィル家の派閥が中心となっており、摂政をおかずに国家統治を評議会自身に委ねる決定を下す。
王太子は当時、ウェールズのラドロウ城で母方の叔父(エドワード4世妃の弟)であるリヴァーズ伯の監督下に教育を受けていた。父王の死の2週間後、エドワード5世はリヴァーズ伯の率いる2,000名の軍と共にロンドンに向かう。

一方リチャードは、その数日前に600名の軍を率いてヨーク市を出立した。ロンドンへ向かう途中、ノーサンプトンでバッキンガム公が手勢を連れて合流し状況を知らせる。リチャードはノーサンプトン西方から引き返してきたリヴァーズ伯と会見し、翌早朝、陰謀の廉でリヴァーズ伯を逮捕。
さらに、エドワード5世滞在中のストーニー・ストラトフォードに向かい、一行のうち、王太后の前夫との間の子(新国王の異父兄)であるサー・リチャード・グレイを含む3名を逮捕した(4月30日)。彼らは後に処刑される。

ロンドンで知らせを聞いた王太后は、他の子供達を連れウェストミンスター・アべイの庇護所に避難した。



―王位継承、あるいは簒奪―

リチャードはエドワード5世に同行してロンドンへ向かい、5月4日にロンドンに入場する。
評議会により、エドワード5世の居住地はロンドン塔に決められ、リチャードは摂政(保護卿)に任命された。当初5月4日に予定されていた戴冠式は6月下旬に延期され、リチャードと評議会は戴冠式の準備を進めた。

6月13日、リチャードは、自身に対する陰謀を企てたとしてヘイスティングズ卿ヨーク大司教トマス・ロザラムイリー司教ジョン・モートンおよびスタンリー卿を逮捕。ヘイスティングズ卿は首謀者として処刑された。スタンリー卿はまもなく釈放される。
3日後、エドワード5世の弟ヨーク公リチャードがウェストミンスター・アベイから兄王のいるロンドン塔へ移る。

この頃、問題が持ち上がる。ある聖職者(バースおよびウェルズの司教ロバート・スティリントンとされている)が、エドワード4世を初代シュルーズベリ伯息女エレノア・バトラー(トールボット)と婚約させたことがあると告白。
「王妃」エリザベス・ウッドヴィルとの結婚より前のことであり、当時、婚約には結婚と同等の拘束力があったため、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚は無効となる。結果、王の子供達は庶子となり、王位継承権がなくなってしまう。

25日、議会(Parliament 貴族院および庶民院)の議員達の集会で、子供達が非嫡出であること、および、グロースター公リチャードの王位継承が承認される。翌26日、議員達はリチャードに請願を提出し、リチャードは受け入れた。
この内容は、後に「ティトゥルス・レギウス Titulus Regius (王位継承法, 王位承認法)」として議会で成文化された。

7月6日、グロースター公リチャードはリチャード3世としてウェストミンスター・アべイで戴冠する。

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