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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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リチャード三世の徽章(バッジ) 4

リチャード三世の徽章(バッジ) 1 > 徽章 2 > 徽章 3 > 徽章 4 > 徽章 5



紋章学において boar は、勇敢さや、戦場における勇猛さを象徴する。
"boar's head" になると全く異なり、 hospitality の象徴となる。御馳走(=猪肉)を出して客人をもてなすということだろう。"boar's head" には、優れた狩人、という意味もあるそうだ。
バッジ badge は紋章 coat of arms とは異なるが、用いられる図形の意味は同じである。




米All About - Medieval Historyには次のように書かれている。


Boar - A fierce combatant when at bay, and ceases fighting only with its life, and therefore may be properly applied as the armorial bearing of a warrior.
Symbolisms of Heraldry - Page Four -  Common Charges より


Boar - 窮地に陥った時は獰猛に戦い、死ぬまで戦いをやめない。そのため、戦士の武具に描く図形として用いられることがある。 (秋津羽 訳)



この意味を考えると、やはり、紋章学上の boar は猪のことに違いない
戦士の徽章としてふさわしいものだと考えられているのだ。……たとえ、見た目は間の抜けたぶたにしか見えなくとも。



なお、charge とは、紋章楯に用いられる図案、特に、具象図形のこと(ライオン、鷲など)。上記のサイトには、良く使われた図案が何を象徴しているのかについて書かれている。


上に書いたのは一般的な意味だが、リチャードが boar をバッジにした理由について、興味深い説をみつけた。



ラテン語で York を意味する "Ebor"のアナグラムかもしれない、というのだ。リチャード三世協会アメリカ支部のサイトでは、ローマ人が用いた名である"Eboracum"の"Ebor"のアナグラムかもしれない、と書かれている(つまり、"Eboracum"→"Ebor"→"Bore")。



[参照]




現在の York の地は、そもそもは、ケルト人により"Eborakon"と呼ばれていた。"イチイの木々のある場所"の意味らしい。
AD71年、ローマ軍が駐屯地を築き、彼らはここを"Eboracum"と呼んだ。ローマ人が5世紀初頭に撤退した後は、アングロ・サクソン人がこの地を支配し、古英語風に"Eoforwic"と呼び名を変えた。
そして、9世紀、デーン人(ヴァイキング)がこの地を征服すると、古ノルド語に変えられてIorvik (Jorvik)となり、11世紀後半にノルマン人が征服した(ノルマンディー公ギヨーム=ウィリアム1世によるノルマン・コンクェスト)後、YorwikYork となった。



York の古い呼び名にちなんだ、というのは、充分考えられることだと思う。ヨーク公の家系というだけではない。York は北部イングランドの中心都市だったが、リチャードは、北部で育ち、北部に所領を持った"Lord of the north"でもある。
そして、ラテン語のアナグラム以外にも、 York と boar の関連がある。古英語での名称"Eoforwic"は「猪の村(または町)」を意味するのだ。



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リチャード三世の徽章(バッジ) 3

リチャード三世の徽章(バッジ) 1 > 徽章 2 > 徽章 3 > 徽章 4 > 徽章 5



もうひとつ、大英博物館関連サイトから wild boar の徽章(バッジ)の画像を。



 画像(表面)  画像(裏面)  解説(英語) (Portable Antiquities Schemeより)



こちらは、銅合金 Copper alloy の鋳物、つまり、金属を融かして鋳型に流し込んで作られたバッジ。銅合金、というのはブロンズ(青銅:銅-錫合金)だろうか。




着用者の、国王(リチャード三世)への忠誠やアフィニティ(貴族や国王お抱えの直属家臣団)を示したものかもしれない、と解説されている。帽子または袖に付けられたと思われ、裏面には、ピンを付けていたと思われる跡が残っている。
大きさ43.6mm×31.4mm、重さ23.5g。


2004年に、ノース・ヨークシャーの Cawood の耕作地で発見された。やはり、金属探知機で見つかったとのこと。West Yorkshire Archaeological Services (WYAS)所蔵のようだ。


 ◇ Cawoodの場所 (blogzinemap)



こちらの方が、大英博物館のChiddingly Boarよりも、猪っぽいだろうか。何となく、犬のようにも見えるが(笑)。



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リチャード三世の徽章(バッジ) 2

リチャード三世の徽章(バッジ) 1 > 徽章 2 > 徽章 3 > 徽章 4 > 徽章 5



前回、リチャード三世の徽章(バッジ)に関する大英博物館Web Siteの記述について、少し書いた。
なぜ、大英博物館か。実は、リチャード三世の支持者のものだったと考えられるバッジが所蔵されているのだ。
発見された土地の名前をとって、"The Chiddingly Boar" と呼ばれている。


 >> The Chiddingly Boar : 画像と簡単な解説(英語) (大英博物館).




このバッジは、1999年2月、イースト・サセックスのChiddinglyで発見された。発見者はPhil Weeden氏で、金属探知機を使っていた時に偶然見つけたらしい。



 ◇ Chiddinglyの場所 (blogzinemap)


銀製で、もともとは表面に金メッキが施されていた。93%のシルバーというから、純度は高い(良くアクセサリーに使われる Sterling Silver = SV925 というのは純度92.5%の銀)。長さ32mm、重さ4.9g。
裏面には、ピンを取り付ける部分が残っており、サイズが小さいことから、帽子に付けるためのものだったと考えられている。



リチャード三世の戴冠式(1483年7月)や、彼の息子(エドワード王子)のプリンス・オブ・ウェールズ叙任の際(同年9月)、数千の wild boar のバッジが記念品として作られたと、王室府の記録に記されている。それらのバッジのほとんどは、安価なブロンズ(青銅)やピューター(錫)で作られていた。


これまで見つかっている wild boar のバッジも、そのような金属で作られたものである。
この銀製のバッジは、見つかったものの中で、貴金属製の唯一のものとのことだ(1999年当時)。
おそらく、重要な貴族へのプレゼントだったと考えられている。



[参考] Treasure Annual Report 2000 - Part 5 (PDFファイル) : この3ページ目に解説がある (文化・メディア・スポーツ省 公式サイト(UK)より)


このバッジは、"wild boar"(猪)と解説されている。確かに、豚っぽくは見えない。でも、猪らしくもないような(顔が……)
安価な大量生産品とは異なり、ある程度手をかけて作成したものなのだろうと思うのだが。



もし仮に(あり得ないとは思うが)、ミュージアム・グッズとして、このバッジのレプリカが売られたとしても、私は買わない気がする。だって、何の動物なのか、見ただけではよく分からないし。ヨークの白ばらの方がいいな。



もっと一般的な金属で作られたバッジについては、次の記事(リチャード三世の徽章(バッジ) 3 : 銅合金の wild boar)に。



リチャード三世の徽章(バッジ) 1

[ リチャード三世の徽章(バッジ) 1 > 徽章 2 > 徽章 3 > 徽章 4 > 徽章 5



リチャード三世のバッジは white boar である。普通、"白猪"と訳されている。
が、一部では"白豚"と云われている(psyさんのこことかこことか)。



ぶ、ぶた?
……私は、"猪"と最初に本で読んで以来そう思い込んでいて、豚だと思ったことはなかった。が、確かに、そう言われると、とっても豚っぽい絵もある。でも、単に絵が下手なんだろうと思っていたよ。猪だか豚だか何だか分からない、謎の四足動物が描かれていることもあるし。
それに牙がある(絵の動物に)、と思ったが、豚にも牙はあるから全く決め手にはならないな。



書籍に書かれた説明では、ずっと、"猪"という記述しか見たことがなかった。だが、ばら戦争(オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』では、"白色の雄豚"と訳されているではないか。むむ。


豚の徽章?何故にぶた?豚ってきれい好きだけど。いや、そういう問題ではない。っていうか、本当に豚なのか?猪ではなくて?
豚は猪を家畜化したものだが、そして、昔の豚は今よりもずっと猪に近かったというが、でも、何も豚を徽章にすることはなかろうに。正直、猪の徽章だってそれほど良いとは私には思えないのだが。もっと他にあるだろう、獅子とか、鷲とか、竜とか!



……閑話休題。単に"boar"というと、「猪」や「去勢していない牡豚」のことを指すが、Web上の英和辞書では、「牡豚」の意味を先に記述しているものが多い。プログレッシブ英和中辞典は wild boar (猪)を第一に挙げているが。





うーん、では、英英辞書、と思って調べたが、どうも"豚"優勢である。
"野豚"の徽章というのは勘弁してほしい。





Encyclopædia Britannica Online 無料版の boar の項目には、"or wild boar or wild pig" とあって "Any wild member of the pig species Sus scrofa" と解説されている。Sus scrofa というのは学名で、 単に"Sus scrofa"というと猪を指す筈。だが、"Sus scrofa domesticus"というと豚になってしまう(domesticus は「家畜化された」の意で、つまり、「家畜化された」Sus scrofa)。
家畜の豚はboarの範疇に入らなくても、野性の豚はboarになってしまうのか?
……いまいち役にたたない。



ああ、でも、紋章学における boar は wild boar のことだと、どこかの英語サイトに書かれていたのを読んだことがある。でも、どこのサイトだか、もう分からない (T_T)
 【追記】 Link(紋章学上の象徴的意味について) : Symbolisms of Heraldry - Page Four -  Common Charges
……追記ここまで……



大英博物館のリチャード三世のバッジの解説には、"The wild boar was Richard III's symbol" と書かれているので、リチャードのバッジは "wild boar" (猪)に違いないと信じているのだが。



どなたか紋章学にお詳しい方、ご教示いただけますと大変嬉しいです。



[関連記事]
 
リチャード三世の徽章(バッジ) 2 : The Chiddingly Boar



[追記] やはり、紋章学上の boar は 猪のことらしい
 リチャード三世の徽章(バッジ) 4 : boar が象徴するもの



[追記2] 中英語(11-15世紀くらいの英語)の boar について調べてみた
 リチャード三世の徽章(バッジ) 5 : 中英語のboar



[ リチャード三世の徽章(バッジ) 1 > 徽章 2 > 徽章 3 > 徽章 4 > 徽章 5



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徽章 badge

紋章とは別にバッジ badgeと言うものがある。日本語では徽章(記章)と訳されることが多い。副紋章と呼ばれることもあるが、あまり一般的な訳ではないようだ。
ランカスターの赤ばら、ヨークの白ばらは、(しばしば混同されるが)紋章ではなくバッジ(徽章)である。リチャード三世のバッジとして知られているのは白猪 white boar だ。




バッジは、紋章と異なり、その所有者が身につけるものではなく、所有権や忠誠を示す"しるし"である。所持品やスタンダード (standard, 細長い三角形の軍旗)に用いられた。そして、重要なことには、使用人の定服(仕着, livery)に忠誠のしるしとしてつけられた(通常、服の胸や袖につけられた)。有力な領主の場合には、その支持者達も領主のバッジを身につけた。



バッジというと、金属製のものをピンで留めるような印象があるが、それだけでなく、物に刻印したもの、布に縫いつけたもの、刺繍したもの等もすべてバッジと呼ぶ。



本来、バッジは、大部隊を編制できる貴族に対し、国王が使用権を与えたものだった。大抵はスタンダードの使用権も付随しており、バッジはスタンダードに描かれた。しかし、次第に、戦場での部隊の識別のため、指揮官はたとえ配下の者が少なくてもバッジを採用するようになった。
バッジの使用は15世紀のイングランドで最盛期を迎え、ばら戦争以降に衰退していったようだ。イングランド以外の国にもバッジは存在したが、イングランドほど利用されることはなかった。



バッジは、所有物や定服、スタンダード等に広く用いられたため、一般の人々に紋章よりもよく知られることとなった。戦場においては、領主の従僕や従者は、定服に領主のバッジをつけ、同じバッジの描かれたスタンダードの下に集まった。



バッジは紋章学の規則には縛られず、世襲の決まりはなかったが、しばしば、同じバッジが何世代にもわたり使用された。子息は父親と微妙に異なるバッジを採用することもあった。



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西洋の紋章 coat of arms

リチャード三世の戴冠について続きを書こうと思っていたのだが、なかなかまとめられないので(^_^;) 先に、リチャードの紋章徽章(バッジ)のことを書いておきたいと思う。その前に、西洋の紋章全般(特にイングランド)について。


西洋の紋章というと、図案の描かれた楯の周りに、様々な装飾がついた華麗なもの(「大紋章」と呼ばれる)を思い浮かべる方が多いのではないかと思う。
しかし、冠(クラウン)や兜(ヘルメット)、兜飾り(クレスト)注1、楯持ちの動物(サポーター)、台座(コンパートメント)等は、「アクセサリー」と呼ばれ、すべて、楯の装飾に過ぎない。
紋章の本体はあくまでも楯である。楯のみのシンプルな紋章は「小紋章」とも呼ばれる。




西洋の紋章は、戦場や騎乗槍試合(ジュースト, joust)において、個人を識別する武具に始まった。紋章は英語では"coat of arms"、あるいは単に"武具"を意味する"arms"と呼ばれるが、このことに由来している。
初期には実際に楯の表面に紋章の図案が描かれていた。



その他、サーコート(surcoat, 甲冑の上に着た袖なしの長衣)や、馬衣(caparison)、バナー(banner)注2にも紋章が描かれた。戦場以外では、印章(シール, Seal)等に用いられた。



日本の家紋も、紋章の一種とみなされているが、西洋の紋章が日本の家紋と大きく異なるのは、紋章が個人の"しるし"だという点だ(都市や団体の紋章も存在するが、ややこしくなるので触れない)。
西洋の紋章は共有されることはない。というより、二人以上の人物が同時期に同じ紋章を使用することは禁じられている
そのため、親子でも同一の紋章を用いることはできないが、全く異なる紋章を使用するわけではなく、子息は父親の紋章に識別のためのマーク(ケイデンシー・マーク, cadency mark)を加えて区別するのが一般的である。



同一紋章の使用が禁じられる一方で、紋章は継承されなくてはならない、という決まりがある。後継者に継承されないものは紋章とはされず、単にエンブレム emblem とされる。
父親が他界した時、嫡男は、それまで使用していた紋章から、嫡男としてのケイデンシー・マークをはずし、父親の紋章を受け継ぐことになる。


紋章の普及に伴い、紋章使用に関する争いが起こるようになり、紋章を統括する機関として、紋章院 College of Arms が中世ヨーロッパ諸国で創設された。
イングランドでは1484年にリチャード三世により創設され、現在に至るまで、イングランド、ウェールズ、北アイルランドの紋章使用を管理している(スコットランドには独自の紋章院 Court of the Lord Lyon がある)。国王直轄の機関であり、王室の典礼も司っている。紋章院が現存するのは英国のみ。総裁職は17世紀末以降ノーフォーク公の世襲となっている。



現在でも紋章制度が保持されている英国だが、イングランドでの紋章の普及は、大陸諸国よりも遅かった。
イングランドで最初に紋章を使用したのは、12世紀末のソールズベリ伯ウィリアム・ロンゲペー注3とされている。彼の楯には6頭のライオンが描かれているが、これは祖父のアンジュー伯ジョフロワ(ジョフリー)(1113-1151, ヘンリー二世の父)から受け継いだものだ。
なお、ジョフロワの楯のデザインは、妻(皇后モード)の父であるヘンリー一世から贈られた、6頭のライオンを刻んだペンダントに由来すると言われる。




◇ アンジュー伯ジョフロワの墓板 →


 エナメル彩(エマイユ、七宝)。美術的評価が高い。ル・マンのサン・ジュリアン大聖堂にあったが、現在は同市の美術館に保存されている。




◇ ウィリアム・ロンゲペーの墓像 (ソールズベリ大聖堂






イングランド王として最初の紋章使用者は、ウィリアム・ロンゲペーの異母兄リチャード一世である。彼の採用した歩き姿のライオン注43頭の紋章は、エドワード三世まで継承され、イングランド王の紋章として定着した(エドワード三世治世に改定された)。



紋章としばしば混同される徽章(バッジ)については次の記事に



リチャード三世の戴冠~1483年7月6日~ 1

[ リチャード三世の戴冠 1 > 戴冠 2 > 戴冠 3



1483年7月6日、リチャード三世はウェストミンスター・アベイで戴冠式を行った。



リチャード三世の即位が王位簒奪だったのか否かは、二人の王子達の殺害疑惑と同様、(一部で)激しく議論されることの多い問題である。王子達の殺害疑惑とも密接に関わりあっている。



とりあえず、事実関係を整理しておきたい。




1483年4月9日、エドワード四世は、ロンドンのウェストミンスター宮殿で病死した。
エドワード四世には二人の息子が残されていた。長男の王太子エドワード(12歳)と、次男のヨーク公リチャード(9歳)である。三男のジョージは2歳で亡くなっている。



弟王子のヨーク公は両親や姉妹達と共にロンドンにいたが、王太子は当時、ウェールズのラドロウ城で、母方の叔父(エドワード四世妃エリザベス・ウッドヴィルの長弟)であるリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルの監督下に教育を受けていた。
国王崩御の知らせがラドロウに届いたのは4月14日である。23日に、新国王・エドワード五世はロンドンに出発する。リヴァーズ伯が2,000名の軍を率いて同行した。



これに先立ち、4月11日、国王評議会(Council)は、王太子の国王即位宣言(エドワード五世)を行った。評議会により、戴冠式の早期挙行(5月4日)が決定され、更に、グロースター公リチャードの参列なしも承認された。



エドワード四世の遺言では、グロースター公リチャードが未成年の新国王の摂政(保護卿, Lord Protector)に指名されていたが、評議会は、摂政をおかずに国家統治を評議会自身に委ねる決定を下した。
この時点で、エドワード四世妃(王太后)の親族であるウッドヴィル家の派閥が、評議会の中心を占めていた。



一方、グロースター公リチャードは、北部の所領にいた。彼の元に知らせが届いたのは、ラドロウと大きくは違わないと思われるが、いつかは分からない。
国王崩御の正式な知らせはリチャードの元に届けられず、ヘイスティングズ卿(王室府式部長官、エドワード四世の側近)が個人的に書簡を送った、とも言われるが、ともかく、リチャードがまず行ったのは、鎮魂ミサの準備だった。



リチャードは、北部の貴族とジェントリを召集し、ヨークミンスターでエドワード四世の鎮魂ミサを行い、同時に、新国王・エドワード五世への忠誠を誓った。
その後、リチャードは、600名の軍と共にヨークを出立する。4月20日以後まもなくのこととされている。



4月29日には、両者ともにノーサンプトン近郊に到着しており、リチャードとリヴァーズ伯との会見が行われた(その前に、バッキンガム公が300名の騎兵を連れてリチャードに合流している)。
そして、翌30日早朝、リチャードは、リヴァーズ伯を陰謀の廉で逮捕し、更に、エドワード五世滞在中のストーニー・ストラトフォードで、新国王一行のうち3名を逮捕した。その中には、王太后の前夫との間の次男(新国王の異父兄)であるサー・リチャード・グレイも含まれていた(彼らは後に処刑される)。



リチャードはエドワード五世を自らの保護下におき、この後、新国王に同行してロンドンへ向かうことになる。



リヴァーズ伯達の逮捕の知らせは、4月30日夜から翌5月1日未明のうちにロンドンに伝わった。リチャード自身も、ロンドンのヘイスティングズ卿に知らせを送っている。



王太后エリザベス・ウッドヴィルは、次男のヨーク公リチャードを含む子供達と共に、ウェストミンスター・アベイの庇護所に逃げ込んだ。この日、王太后は、ヨーク大司教にして大法官のトマス・ロザラム(王太后=ウッドヴィル派だった)から国璽を受け取った。



ロンドンにいた王妃の親族は、王太后の名の下、軍の徴集を図った。
ドーセット侯トマス・グレイ(王太后の前夫との間の長男)はロンドン塔を掌握しており、テムズ河国王艦隊司令長官のサー・エドワード・ウッドヴィル(王太后の弟)は、軍艦の集結を企てた。



これに対抗して、ヘイスティングズ卿も軍を集めた。
このため、ロンドン市内では様々な噂が飛び交い、緊迫した状態となった。



ヘイスティングズ卿は、グロースター公リチャードからの書簡を貴族達に紹介し、グロースター公を支持するよう説得する。書簡には、新国王への忠誠の誓いと、リヴァーズ伯達の逮捕は自らを護るためである、との旨、書かれていた。



5月2日、ヘイスティングズ卿からロンドンの状況について知らせを受けたリチャードは、すぐにロンドン市長に書簡を出し、5月4日にエドワード五世をロンドンに帰還させると宣言した。書簡の内容は、先にヘイスティングズ卿に送ったものと同様で、市民達の前で朗読された。



これにより、ウッドヴィル派の軍事行動は不可能となり、5月4日の朝、エドワード五世は、グロースター公とバッキンガム公と共に、ロンドンに到着した。当初、戴冠式の予定されていた日である。結局、大きな混乱なく、ロンドン入場が行われた。



ドーセット侯とソールスベリィ司教ライオネル・ウッドヴィル(王太后の弟)は、ウェストミンスター・アベイの庇護所に逃げ込み、サー・エドワード・ウッドヴィルは逃亡した。



この後、リチャードは正式に摂政に任命され、エドワード五世の戴冠式は6月22日に延期された。リチャードと評議会は戴冠式の準備を進めたが、戴冠式は更に延期された。結局、エドワード五世の戴冠式は行われることはなく、7月6日に挙行された戴冠式は、リチャード三世のものであった。



ばら戦争関係地図 powered by Google Maps API Ver. 2

Google Maps(Googleマップ)を使って、ばら戦争の関係地図を作ってみた。



ばら戦争関係地図
URL : http://richardiii.web.fc2.com/map_wars_of_the_roses.htm



ばら戦争の(日本語の)地図は、Web上では見たことがないので、ずっとサイトに掲載したかった。Googleマップだと、マウス・ドラッグで簡単に移動ができ、拡大・縮小も自由。更に、地図と衛星写真の重ねあわせもできる。魅力的。
ただ、自分には敷居が高いな、と思っていたのだが、一念発起して(笑)作ってみた。



地図上のマーカーをクリックするか、リストの名前をクリックすると、吹出しがでて、古戦場名や地名、日付、一部ではWebサイトへのリンクが表示される。



あちこちのサイトを参考にさせていただき、試行錯誤の上、何とか設置できた。
途中、IEで見れなくなったりもしたが(FirefoxやOperaだと問題なくてもIEだとエラーが出たりする)、おおむね希望通りの設定にできた。ので、とりあえず満足。



ただ、IE(Windows)での動きが、FirefoxやOperaと比べて悪いのが気になる。
吹き出しの中に、縮尺を大きく(ズーム)できるようにリンク(Java Script)をつけたのだが、一度ズームした状態で他の場所をクリックすると、ちゃんと表示されないことが多い。地図左の縮尺調整用コントローラーで縮尺を変えるか、初期表示に戻すかすると、きちんと表示されるのだが。



◇ 参考にさせていただいた主なサイト





↑ いずれも、2006年4月からの新バージョン(Version 2)に基づいて解説なさっていて、大変参考になりました。ありがとうございました。
その他、こちらも参照↓





【参考Link追加】 





座標は分からないので、書籍(主に『ばら戦争(オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』)やWeb上で見つけられた古戦場の地図と、現在のUKの地図(他の地図サイト)とを照らし合わせ、視認でマッピング。リストの古戦場すべてのマッピングは無理かも知れないと思ったが、探すと結構、地図が見つかり、全部マッピングできてしまった。



縮尺を変えると、何故か、位置がずれてしまったりするのだが(マーカーの先端が川の反対側になったり)、一応、極端な間違いはないと思う。
いや、ロンドン塔がテムズ川に浮かんでいる(笑)のは極端か。



古戦場の場所は、建造物と違い、ピンポイントで指し示すことのできるものではないので、枠線で囲めばよかったかと、後で思いついた。公式サイト(英語)のココ(Custom Overlays)にやり方が書かれているようだが、何だかややこしそう。16箇所あると考えるとくらくらする(笑)。
とりあえず今のままで良しとする。



古戦場の場合、サテライト・モードにしても、野っ原が見えるだけだったりして、いまひとつ面白みに欠けるのだが、そのうち、城砦の場所もマッピングしてみたい。とりあえず、ロンドン塔だけ掲載した。
城くらい大きいものだと、廃墟になっていても、サテライト・モードで確認できて面白い。もっとも、土塁しか残っていなくて周囲に目印になるものがないと、何がなにやら分からないが。


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