このサイトは

英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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ブログ人カスタマイズ10:世界各地の都市の天気を表示

~世界各地の都市の天気をWebサイト・ブログに表示する~



サイドバーに、お天気バナーを表示してみました。
表示しているのは、英国 Yorkshire の Leeds という街の天気。



なぜ Leeds かというと、この辺りはリチャード三世のグロースター公時代の領地だから。本当は、York 市か、Yorkshire Dales National Park のどこかを表示したかったのだが、見つからなかったので、近くの Leeds の天気を表示。




バナー(ウェブパーツ)は、Weather Underground 提供のものを使用しています。
日本国内の天気を表示するブログパーツ、ウェブパーツはよく見かけますが、海外の天気、しかも首都以外となると、ちょっと見つけにくいと思うので記事にしておきます。ちなみに、日本の都市の天気も表示できます。



気温を表示するもの、時計つきのもの、日の出 / 日の入りと月の出 / 月の入りを表示するものなど、多機能。デザイン・サイズも色々。
そして、表示できる都市の数が多いのが嬉しい。日本の都市の表示もOK。
ユーザー登録不要で、設置も割と簡単です。元々英語サイトですが、一部、日本語で表示されるようになっています。



【設置例】




Click for Leeds, United Kingdom Forecast




Click for Leeds, United Kingdom Forecast



[追記] お天気バナーをはずしました(2011.5.21)



ブログ人での設置方法を下にメモしておきます。
6番までは、他のブログ / サイトでも方法は同じです。



【設置メモ】



1. 次のいずれかの方法で、地域(Region)、国(Country)を選択する



  • カラーの地図上でクリック(初期状態ではユーラシア大陸と日本が表示されている)

  • 下にスクロールして世界地図上でクリック

  • 下にスクロールして「Select a Region」で地域を選択 → 国を選択


2. 「都市」のリストが表示される(下にスクロール)



3. 「都市」名をクリック→天候表示画面に移動



4. 下にスクロールして、[ Free Weather Stickers for Your Homepage! ]というボックスにある[ Get Your Weather Sticker! ]をクリック



5. 色々なバナーが表示される



6. 希望のバナーをクリックすると、 html ソースが表示される



7. html ソースをコピーして、「私リスト」にペースト(貼り付け)。リストのタイプは[メモ]。[項目の追加]で「メモ」欄に貼り付けてください。「ラベル」は空欄のまま。



もう一つ、サイトをご紹介しておきます。



WeatherReports



世界各地の都市の天気と気温を表示できます。こちらも表示できる都市の数が多く、日本の都市の表示もOK。
サイズと色(背景)が選べます。上述の ”Weather Underground” よりもシンプル。
ユーザー登録不要。英語ですが、設置は簡単です。



【設置例】





【設置メモ】



1. 地域(Region)→国(country)を選択、または、国(country)を直接選択



2. 「都市」もしくは「場所」を選択



3. 天候表示画面に移動



4. 画面の右下の[ Add WeatherReports to Your Site ]をクリック



5. 色・サイズ等を選択



[1. Choose your location ] の欄には、既に場所名が入っているので、そのまま。



その右の欄で、[華氏(°F)]か[摂氏(℃)]を選択



[2. Choose your theme ] の欄で、色・背景、検索ボックスの有無等を選択



[3. Choose your size ]でサイズを選択



6. html ソースが表示される



7. html ソースをコピーして、「私リスト」にペースト(貼り付け)。リストのタイプは[メモ]。[項目の追加]で「メモ」欄に貼り付けてください。「ラベル」は空欄のまま。


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キャサリン・オブ・ヨークの婚約と結婚

エドワード四世の6女キャサリン・オブ・ヨーク(1479-1527)の婚約と結婚について。



  1. カスティーリャとアラゴンの王太子フアン (婚約解消)


  2. スコットランド王子ジェイムズ・ステュアート (婚約解消)


  3. デヴォン伯嫡男(後にデヴォン伯)ウィリアム・コートニー


1. カスティーリャとアラゴンの王太子フアン(1478-1497)



キャサリンは、1479年、カスティーリャとアラゴンの王太子(カトリック両王―イサベル一世とフェルナンド二世―の嫡男)と婚約した。キャサリンは生後間もなくで、フアンも1歳と、非常に早い婚約である。
同じ年には、すぐ上の姉であるアン(1475-1511)が、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世とブルゴーニュ女公マリーの嫡男、フィリップ美公(1478-1506)と婚約している。
 >> アン・オブ・ヨークの婚約と結婚



同年3月には、アンとキャサリンの間に生まれた3男ジョージが2歳で夭折しているが、ひょっとして、このことは、二人の王女の早い婚約と何か関係があるのだろうか?



後に、この婚約は(アンとフィリップ美公の婚約同様)立ち消えとなった。その正確な時期は分からないが、1483年4月にエドワード四世が死去し、さらに、キャサリンたち兄弟姉妹が庶子であるとされたことが関係していると思われる。
フアン王太子は、1497年に、フィリップ美公の妹マルグリット・ドートリッシュと結婚したが、まもなく病死した。



2. スコットランド王子ジェイムズ・ステュアート(1476-1504)



次いで、1487年に、キャサリンは、スコットランド王ジェイムズ三世の次男ジェイムズ・ステュアート(ロス伯、後にロス公)と婚約した。ヘンリー七世即位の2年後のことだ。
ちなみに、父王と長男・次男が、同名のジェイムズである。ややこしい名づけ方はやめてもらいたい。
この時、キャサリン8歳、ロス伯ジェイムズ11歳。



この婚約は、キャサリンの義兄ヘンリー七世とジェイムズ三世との協定によるもので、同時に、ジェイムズ三世の長男ジェイムズ(後のジェイムズ四世)と、キャサリンの姉妹の一人を結婚させるという約束もなされた。
なお、この時点で未婚かつ婚約していない姉妹は、7女のブリジット(1480-1517)のみである。3女のセシリィはウェルズ子爵との結婚が決まっていたようだし、5女のアンは、サリー伯トマスの嫡男(後の3代ノーフォーク公)と婚約していた。もっとも、ヘンリー七世は、アンの婚約を破棄することも考慮していたかもしれない。
翌1488年にジェイムズ三世が戦死し、これらの婚約は破棄されたようだ。



なお、キャサリンの姉セシリィと王太子ジェイムズ(後のジェイムズ四世)は、1474年から1482年まで婚約していた。セシリィは、1486年に最初の夫レイフ・スクロープとの結婚が無効とされ、1487年末にはヘンリー七世の叔父ウェルズ子爵ジョンと結婚している。
 >>セシリィ・オブ・ヨークの婚約と結婚



3. デヴォン伯嫡男(後にデヴォン伯ウィリアム・コートニー(1475-1511)



1495年10月、キャサリンは、デヴォン伯エドワード・コートニーの嫡男ウィリアム・コートニー(後にデヴォン伯, 1475-1511)と結婚した。
キャサリン16歳、ウィリアムは19歳か20歳。



同じ年に、キャサリンのすぐ上の姉アン(1475-1511)とトマス・ハワード(後の3代ノーフォーク公, 1473-1554)が結婚している。
 >> アン・オブ・ヨークの婚約と結婚



ウィリアム・コートニーは、1502年(1504年という説もある)に、ヘンリー七世によりロンドン塔に投獄された。亡命中のサフォーク伯エドマンド・ド・ラ・ポール注1を支援したという嫌疑による。
だが、投獄の真の理由は、ヘンリー七世が、義妹の夫に警戒心を抱いたためと考えられている。エドワード四世の娘達のうち、存命の子供(ヨーク家の血を引き、王位継承に近い位置にいる)がいたのはキャサリンとウィリアムの夫妻だけであった。



ヘンリー七世は、1509年4月に死去した。ヘンリー八世即位後、ウィリアムはロンドン塔から釈放された。
同年5月に父のデヴォン伯エドワード・コートニーが死去したが、ウィリアムは私権剥脱されていたため、爵位を継ぐことができなかった。その後、1511年5月10日に、彼はデヴォン伯に叙されたが、その1ヶ月後(6月9日)に死去した。
当時、キャサリンは31歳とまだ若く、再婚するものと考えられていた(当時はそれが普通だった)。だが、彼女は、夫の死後まもなく貞節の誓いをたて、再婚することなく、1527年に48歳で死去した。



キャサリンとウィリアムの間には2男1女が生まれた。
長男エドワード注2は夭折し、長女マーガレットも、母より先に20代で死去した。
次男ヘンリー(1498-1539)は、デヴォン伯位を継ぎ、後に初代エクセター侯に叙された(1525年)が、1539年に、”反逆者”レジナルド・ポール枢機卿注3に荷担した罪に問われ、レジナルドの長兄モンタギュー卿ヘンリー・ポールと、モンタギュー卿の義兄サー・エドワード・ネヴィルと共に、ヘンリー八世(母方の従兄弟)により処刑された。
エクセター侯ヘンリー・コートニーは、ヘンリー八世とその姉のマーガレット・テューダーを除けば、エドワード四世の唯一の存命の孫であった。


ローレンス・オリヴィエの『リチャード三世』 ビデオ・DVD

リチャード三世 Richard III (1955年 / 英)



監督・主演 ローレンス・オリヴィエ



英アカデミー賞(3部門)
ベルリン国際映画祭銀熊賞(International Prize)
ゴールデン・グローブ賞( Best English-Language Foreign Film)



"正統的"な『リチャード三世』(ただし、脚色は結構ある。一番の脚色はヘンリー六世妃マーガレットが出てこないことだろう)。



◇ トレイラー(予告編)






日本盤:ビデオが以前に発売されているが製造中止。DVDは未発売。「ヘンリィ五世」や「ハムレット」はDVD化されてるのにな~



海外盤:ビデオとDVDがあるが、視聴環境に注意が必要(後述)

【参考】:海外のDVDを観るには 1


◇ 米盤ビデオ(NTSC方式)は、日本の通常のビデオデッキで観れます。Richard III (Laurence Olivier)



米盤ビデオ(2001年発売)は製造中止かもしれません。Amazonでは新品の取り扱いがなくなっています。



Richard III Amazon(米)



Richard III Amazon(日本)



◇ DVDは、米国(US)盤(リージョン1, NTSC)と英国(UK)盤(リージョン2, PAL)があります。
 * 米盤はリージョンALLかもしれません >> (追記:私の入手した米盤DVDはリージョンALLです)



  • 価格はUK盤が安く、特典映像は米盤が豊富(私はUK盤の特典が欲しくてUK盤を買いましたが、これは特殊……)


  • 米盤には英語字幕あり。UK盤は字幕なし。日本語字幕はいずれもなし。


  • 米盤、UK盤ともに、デジタル修復されています。私はUK盤しか観ていないので画質の比較はできないものの、おそらく米盤の方が綺麗な画像だろうと推測しています。理由は、米盤は片面2層、UK盤は片面1層であること、そして何よりも、米盤の発売元のクライテリオン(Criterion)社は、名作映画を高画質・高音質で出すことで定評のある会社だからです。
    なお、Amazon(UK)の評を見ると、以前に発売されていたUK盤のDVDは、画質が良くないようです(ご紹介している新盤は改善)。
    追記:厳密に比較していないのですが、(少なくともぱっと見は)UK盤も米クライテリオン盤と比べ、さほど画質が悪くはないと思います。


  • 米盤、UK盤共に、過去に欠落していたフィルムが補われています。しかし、記載されている本編の収録時間が異なります(米盤159分、UK盤152分)。UK盤にはまだ数分の欠落があるようです。 これは、映画フィルムをPAL方式にする際に、再生スピードが4%早くなる(いわゆる"PAL早回し")ためではないかと思います(厳密に見比べていないので、両者の編集が同じであるとは断言できませんが)


  • Richard III (Special Edition) UK盤Richard III - Criterion Collection詳しい比較はこちら >>




◆ 米盤(リージョン1, NTSC) リージョンALLかもしれません (私の手持ちの米盤DVDはリージョンALLです)



Richard III - Criterion Collection : 定価 $39.95



 Amazon(米)の日本への送料



 Amazon Marketplace(米)の送料は異なります



《リチャード三世 Criterion Collection (1955) 米盤DVDのリージョンについて》



Amazon(米)をはじめとして、海外の大抵のDVD販売サイトでは、「リージョン1」と表記されています。しかし、一部の販売サイトでは、「リージョン0(ALL)」と表記されています。
なお、発売元のクライテリオン(Criterion)のサイトには、リージョン表記はありません。
ちなみに、私の持っている米盤DVDはリージョンALLです(日本の普通のDVDプレイヤーで視聴可能)。



考えられる可能性は
1. 実は全て「リージョンALL」
2. 「リージョン1」と「リージョンALL」が混在
ですが、実際はどうなのか不明です。



米盤DVD(NTSC方式)は、リージョンALLならば、日本の通常のDVD視聴環境でみることができます。
リージョンフリー(マルチリージョン)環境でない方で、このDVDを購入してご覧になりたい方は、「リージョン0(ALL)」と明記されている販売サイトでご購入ください。もしくは、Criterion にご確認ください。


たぶん「リージョンALL」だろうと推測して、「リージョン1」と書かれているサイトで購入し、「リージョン1」のDVDが届いて観ることができなくても、販売サイトに苦情を言うわけにはいきませんので。……個人的には、すべてリージョンALLではないかと疑っているのですが。



なお、輸入盤DVDオンラインショップ DVD Fantasium では、「リージョンALL」となっています。日本語で購入できます。私はこちらから購入したことはないのですが、評判の良いお店のようですので、ご紹介しておきます。
 DVD Fantasium > リチャード三世DVD



◆ UK盤(リージョン2, PAL)



UK盤は、日本の普通のTV+DVDプレーヤーでは大抵は再生できませんが、PC(パソコン)ならば再生可能です。また、PAL→NTSC変換機能のあるDVDプレーヤー(種類は少ないが販売されている)ならばTVで視ることができます。



Richard III (Special Edition) : 定価  £14.99 (大幅に割引されていることが良くあります)



Amazon(UK)では、表示価格からVAT(付加価値税)分が引かれます(17.5% 15%) 注: Marketplaceでは引かれません



 Amazon(UK)の日本への送料



 Amazon Marketplace(UK)の送料は異なります



《米盤とUK盤の比較》







































米盤(US盤)英盤(UK盤)
リージョン1または0(ALL)2
映像形式NTSCPAL
字幕英語
(English for the hearing impaired)
なし
CC(closed caption)なしなし
ディスク片面2層片面1層
枚数2枚(本編+特典ディスク)2枚(本編+特典ディスク)
本編時間159分152分
定価$ 39.95£14.99


US盤のデータは、Criterion のサイトや、Amazon等のショップのサイトを参考にしています。個人で調べた範囲で記載していますが、もしも情報の不備がございましたら御了承ください。
UK盤は、私の所有しているDVDのデータです。



レート計算(外国為替情報) at Yahooファイナンス



《US盤映像特典》



  • オーディオ・コメンタリー(劇作家・舞台監督 Russell Lees と ロイヤル・シェイクスピア・シアター前支配人 John Wilders)


  • Great Acting: Laurence Olivier (ローレンス・オリヴィエのインタビュー, 1966年BBC)


  • スチール画像、ポスター画像


  • TVトレイラー(12分)、劇場版トレイラー(予告編)


  • 解説(映画史家 Bruce Eder) : Bruce Eder氏による解説はCriterionのサイトにも掲載されているが、DVD収録分と同じものかどうかは不明


《UK盤特典ディスク》



  • The Trial of King Richard III (リチャード三世の擬似裁判, 1984年のTV番組, Channel 4, 225分, 字幕なし)


なお、クライテリオン(Criterion)からは、オリヴィエの『ハムレット(ディスク1枚)』、『ヘンリー五世(ディスク1枚)』のDVD、および、これらの3作品のBOXセット『Olivier's Shakespeare (Hamlet / Henry V / Richard III)(ディスク4枚)』も出ています。 英語字幕付です。
いずれも、『リチャード三世』と同様に、大抵のDVD販売サイトでは、「リージョン1」と表記されていますが、一部の販売サイトでは、「リージョン0(ALL)」と表記されています。



【Link】



Imdb >Richard III (1955)  (英語)



The Criterion Collection: Richard III : Criterionのサイト(英語)



Olivier films Richard III : Richard III Society - American branch 内 (英語).  映画の画像が数枚あります





最終更新日:20010.7.10


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『ヘンリー六世』 三部作

『ヘンリー六世(第一部、第二部、第三部)』および『リチャード三世』は、シェイクスピア史劇の中で第1・4部作と呼ばれている。
第2・4部作は、『リチャード二世』『ヘンリー四世(第一部、第二部)』『ヘンリー五世』。物語の年代は第2・4部作の方が先だが、作品の書かれた年代が後なのだ。



『リチャード三世』と話がつながっていることだし、グロースター公リチャードもでてくるし、やはり一度ちゃんと読むべきか、と思い『ヘンリー六世』三部作を読んでみた。日本語で。







第二部の途中までは、突っ込みを入れながらも「フィクションとして」楽しく読んだ。
例えば、第一部の、テンプル法学院の庭で白ばらと紅ばらを手折る有名な場面(第2幕第4場)。たまに事実だと勘違いされてる方もおられるが、こんな芝居がかったことやる筈ない。ていうか、お芝居だから、芝居がかっていても当然。



問題(私にとって)は第二部の終わりから。



第二部第5幕でセント・オールバンズの戦が描かれる。話の流れからいって、第1次セント・オールバンズの戦。ここにリチャードが出てくる。
え、ちょっと待って。もう出てくるの?
リチャードまだ子供、というか、エドワード兄ちゃんだって子供だったはず。
実際の年を確認すると、1455年5月。リチャード2歳。2歳!



 Link :ばら戦争 第1期(1455-1464)



なんてこったと呆然としつつ、第三部に進む。
冒頭、ヨーク公は、リチャードが息子達の中で一番よく戦った、とか言っている。
うぉあぁああ。2歳だよ、2歳~



この時点で、既に私はまともな鑑賞はできなくなっている。以後は、完全に一人突っ込み大会と化した。……まあ、元々突っ込みは入れてたけれど。



[第三部・第1幕]



ウェイクフィールドの戦が描かれる。この戦でヨーク公は戦死(史実)。1460年12月のことだ。リチャード8歳



ここで、幼いラトランド伯(ヨーク公の息子)の殺害の場面がある(第1幕第3場)。
ラトランド伯エドマンドは、実際は、エドワードのすぐ下の弟で17歳。この戦いが初陣だった。彼もまた、父と共に戦死する。



兄弟の年齢順を入れ替えたことで、末子のエドマンドが伯爵位を持ち、兄(シェイクスピア版で)のジョージとリチャードが爵位を持っていない、という"ねじれ"が生じている。
幼子を殺したと描かれたクリフォード卿も気の毒。劇的効果を狙ってのことだとは思うが。



ついでに付け加えると(<ついでか!)、王太子エドワード(ヘンリー六世の息子)が第1幕第1場から出てくるが、彼の歳も実際より上にされている。王太子エドワードは、リチャードより1つ年下である



[第2幕]



モーティマーズ・クロスの戦(1461年2月)とタウトンの戦(1461年3月)が描かれる。リチャード8歳
シェイクスピアン・リチャードはここでも出陣している。ジョージも。



史実では、この頃、ヨーク家の下の子供達(リチャードと2歳上の兄ジョージ)は、難を避け、家族と離れ、ブルゴーニュ公国へ亡命させられている。この亡命生活は短期間ではあったが、リチャードに結構影響を与えたのではないかと個人的には思っている。が、それはまた別の話だ。



嗚呼、いくらなんでもあんまりじゃあありませんか、シェイクスピア御大。
『リチャード三世』で、うら若い未亡人(アン)をたぶらかす中年男のように描かれているのは、作劇上の都合ということで納得しても良い。フィクションだからね……たとえ歴史的事実だと誤解されようと。
ちなみに、ヘンリー六世王太子エドワードが戦死(17歳)したテュークスベリーの戦(1471年5月)の時、(史実の)リチャードは18歳。翌年、リチャードはアン・ネヴィルと結婚。この時リチャード19歳、アン16歳。若い!
でも、いたいけな Dickon 少年、ていうか、ちび Dickon (2歳!)をこんな風に描くなんて、いくらフィクションでも納得できないぞ。私は!
* Dickon は、Richard の愛称



史実では、タウトンの戦の後、エドワードがエドワード四世として即位する(1461年6月)。
戯曲では、第2幕と3幕の間でエドワードが戴冠しているようだ(戴冠式の場面はない)。



[第3幕]



ウォーリック伯、寝返り早っ(第3幕第3場)。
実際はエドワードに面目つぶされてから結構我慢している。えーと、エドワードがエリザベス・ウッドヴィルと結婚した後5年くらいは。色々あって、とうとう限界にきて反乱起こしたのだ。一度はエドワードと和解しているし。
そして、アンがウォーリック伯の長女で、イザベルが次女。実際と逆の設定なのか。うーん。



[第4幕]



この辺りでようやく、史実のジョージとリチャードが大人になる(十代の終わりから二十歳前後)。



エドワード兄ちゃん、弟(ジョージ)を引き止めなくても良いのか?すんなりウォーリック伯のところに行かせていいの?おーい(第4幕第1場)。



案の定(?)エドワード、ウォーリック伯にあっさり捕まる(第4幕第3場)。
リチャードが、軟禁されていたエドワードを助け出す。エドワードは狩に行くのを認められており、警備が手薄なのを狙ったのだ(第4幕第5場)。
カッコ良いとも言えるリチャードだが、これは創作。確かに一度エドワードはウォーリックに捕らえられている(1469年7月)が、その時は和解し、釈放されている。



森川久美さんの『天の戴冠』にも、リチャードが、ウォーリック伯側に軟禁されていたエドワードを助け出す場面がある。このエピソードの出典はどこなのだろうと思っていたのだが、シェイクスピアの『ヘンリー六世 第三部』だと分かったのは収穫だった。



 Link :ばら戦争 第2期(1469-1471)



[第5幕]



バーネットの戦(1471年4月)とテュークスベリの戦(1471年5月)が描かれる。リチャード18歳。
テュークスベリの戦の後、エドワード王太子はヨーク家の三兄弟に殺され、ヘンリー六世妃マーガレットは捕らえられ(第5幕第5場)、ヘンリー六世はロンドン塔でリチャードに殺される(第5幕第6場)。(注)
戯曲『ヘンリー六世』は、エドワード四世の復位で終わり(第5幕第7場)、『リチャード三世』へと続く。



注:当時の記録では、エドワード王太子は戦中に死亡したとされている。また、ヘンリー六世の殺害がグロースター公リチャードによるものという証拠はない。



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リチャード3世の扮装をしたローレンス・オリヴィエの肖像

Portrait of Laurence Olivier in the Role of Richard III
(Retrat de Laurence Olivier en el paper de Ricard III)



サルヴァドール・ダリ(Salvador Dali) 作
1955年, 油絵
ダリ劇場美術館 Teatre-Museu Dali (フィゲラス)所蔵



映画 "Richard III" (1955年)でリチャード三世を演じた(兼・監督)ローレンス・オリヴィエの肖像画。
といってもダリなので、ちょっと普通じゃない。オリヴィエ扮するリチャード三世の後ろに、オリヴィエがいる。左肩のラインが(オリヴィエの)右の背景の山並みに連なっている。



ガラ=サルバドール・ダリ財団 Fundacio Gala-Salvador Dali のサイトで絵が観れる ▽







上野の森美術館で2006年に開催された「生誕100年記念 ダリ回顧展」にこの絵も来ていたことを最近知った。見逃したのがちょっと残念。



現在、サントリーミュージアム[天保山]で、「生誕100年記念 ダリ展 創造する多面体」という展覧会が行われている(2007年3月8日-5月6日)が、やはり、こちらでは展示されていないのだろうか?展示作品はかなり違っているらしい。
ちなみに、この展覧会は、名古屋市美術館(5月12日-7月11日)北海道立近代美術館(7月21日-9月6日)に巡回する。



[Link] Olivier archive saved for nation (BBC NEWS) : Richard IIIに扮したLaurence Olivierの絵をDaliが描いている写真がある



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セシリィ・オブ・ヨークの婚約と結婚

エドワード四世の3女セシリィ・オブ・ヨーク(1469-1507)の婚約と結婚について。
長姉のエリザベス・オブ・ヨークの婚約・結婚の状況は複雑だが、セシリィの場合も負けず劣らず複雑だ。



  1. スコットランド王太子ジェイムズ (婚約解消)


  2. レイフ・スクロープ (婚姻無効)


  3. ウェルズ子爵ジョン (死別)


  4. トマス・カイム

1. スコットランド王太子ジェイムズ(後のジェイムズ四世; 1473-1513, 在位1488-1513)



ジェイムズ四世 James IV of Scotland
エドワード四世は、1474年に、セシリィをスコットランドの王子と婚約させた。ジェイムズ三世とマーガレット・オブ・デンマーク(デンマーク王クリスティアン一世の娘)の長男ジェイムズ―後のジェイムズ四世である。
この時、セシリィ5歳、ジェイムズ1歳。



1479年末から1482年夏にかけて、スコットランド軍による国境侵犯と、それに対抗したイングランド軍によるスコットランド遠征があり、その後、この婚約は破談になった。1482年10月に、(以前にスコットランドに支払われた)セシリィの持参金の返還交渉が行われている。



だが、それより前、1482年6月に、ジェイムズ三世の弟、オルバニィ公アレクサンダー・ステュアート(c. 1454-1485)と、エドワード四世との間で結ばれた協定に、セシリィの結婚に関する条件も含まれていたらしい。



セシリィの結婚に関する条件は次の通り。



  • エドワード四世はオルバニィ公のスコットランド王位請求を支援する。


  • 代わりに、オルバニィ公アレクサンダー・ステュアートが即位した場合は
    • アレクサンダーが、1年以内に、教会法の下で他の女性との結婚を解消できれば("婚姻無効"にできれば、ということだろう)、セシリィと結婚する


    • もし結婚を解消できなければ、アレクサンダーの息子にして継承者は、イングランド王の血縁者以外とは結婚させない


 >>参考 : Privy Purse Expenses of Elizabeth of York: Wardrobe Accounts of Edward IV by Nicholas Harris Nicolas, Esq.(1830年)
Part II: Remarks on the Privy Purse Expenses of Elizabeth of York & "Memoirs."



この時、オルバニィ公には2人目の妃がいたわけで(しかも、最初の妃とは"婚姻無効"になっている)、はっきり言って無茶苦茶である。
エドワード父さんもリチャード叔父さんもちょっとひどくないか? "どうせ実現しないだろう"とたかをくくっていたのかもしれないが。
……まあ、2番目の条件は妥当だろう。



しかし、オルバニィ公の支援を名目にした1482年のスコットランド遠征(第2回)は失敗に終わり(オルバニィ公は、スコットランド貴族に囚われた兄王と和解してしまった)、この協定も無効となった。



なお、ジェイムズ四世は、1503年に、ヘンリー七世とエリザベス・オブ・ヨークの長女(ヘンリー八世の姉)マーガレット・テューダー(1489-1541)と結婚した。



2. レイフ・スクロープ(c.1461-1515)



セシリィ・オブ・ヨークの最初の結婚相手は、レイフ・スクロープである。
リチャード三世治世で、エリザベス・ウッドヴィルと娘達が、ウェストミンスター・アベイの庇護所から出た1484年3月(セシリィが15歳になる頃)よりも後である。



Oxford DNB (Oxford Dictionary of National Biography) には、”Ralph Scrope, the brother of Baron Scrope of Masham” とある。5代男爵トマス(1428/29-1475)の息子で、6代男爵トマス(1459/60-1493)の弟のレイフ・スクロープ(c.1461-1515)のことだ。



スクロープ家は2系統あり(Scrope of Masham, Scrope of Bolton)、いずれも北部の中小貴族である。リチャードのグロースター公時代からの家臣だったようだ。リチャードが、スクロープ家との結びつきを強めようとして、当主の弟と、自分の姪を結婚させたのではなかろうか。



 なお、1484年に、セシリィの妹アン(1475-1511)が、サリー伯の嫡男トマス・ハワード(後の3代ノーフォーク公)と婚約している。おそらく、セシリィの結婚も同じ頃のことと思われる。
 >> アン・オブ・ヨークの婚約と結婚



セシリィとレイフ・スクロープの結婚は、後に”婚姻無効”とされた。1486年―ヘンリー七世即位の翌年のことである。
この婚姻無効は、ヘンリー七世の意向のようだ。翌年、セシリィは、ヘンリー七世の叔父と結婚する。



3. ウェルズ子爵ジョン(-1499)



1487年末、セシリィは、ウェルズ子爵ジョンと結婚した。この時、セシリィは18歳。
ジョン・ウェルズの生年ははっきり分からないが、セシリィより20歳くらい歳上だと思われる。
彼は、ヘンリー七世の母マーガレット・ボーフォートの異父弟(マーガレット・ビーチャムとウェルズ卿ライオネルの息子)である。つまり、ヘンリー七世の叔父(half-uncle)にあたる。ヘンリー七世即位後に子爵に叙された。



ヘンリー七世が、義妹を叔父と結婚させたと考えられている。
二人の間には2女が生まれたが、いずれも幼くして亡くなった。
ジョン・ウェルズは1499年に死去した。



4. トマス・カイム



ジョン・ウェルズの死後、セシリィは、トマス・カイムと結婚した。1502年から1504年の間と考えられている。
彼はリンカンシャーのエスクワイアである。騎士(ナイト)ですらないジェントリであり、国王の義妹の結婚相手としては身分が低すぎる。特に重要な地位にもなかったようだ。



おそらく、これは、セシリィ自身が望んだ結婚だったのではないだろうか。ヘンリー七世はこの結婚に激怒したらしい。
トマス・カイムとの間の子供についてははっきりしない。子供は生まれなかったか、夭折した、という説がある一方で、成長した子供が2人いた、という説もある。



セシリィは、1507年に38歳で亡くなり、ワイト島に葬られた。


最終更新日:2008.2.27


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スコットランド遠征(1481-1482)

イングランドとスコットランドは、1474年10月にエディンバラで結ばれた協定以後、1479年10月まで平穏な状態が続いていた。が、1479年末から、スコットランド軍の越境、略奪が始まり、両国は緊張関係に入った。このスコットランドによる停戦協定の破棄には、フランス王ルイ十一世の働きかけが関係しているのではないかと考えられている。



これを受け、1480年5月12日、エドワード四世はグロースター公リチャードを北部総監 Lieutenant General of the North に任命し、リチャードは北部地区の軍事権を掌握した。統監 Lieutenant General は、戦争・内乱等の緊急時に一時的におかれる職であったが、設置期間中は、軍の徴集権・統率権と管区統括権を全て掌握する。


なお、平時は、北西部辺境防衛司令長官(辺境守護職) Warden of the West March against Scotland であるリチャードが国境西部地域の軍事権を、ノーサンバランド伯(Warden of the East March)が国境東部地域の軍事権を握っていた。



同年夏、第5代アンガス伯アーチボルド・ダグラス Archibald Douglas, 5th Earl of Angus 注1 率いるスコットランド軍が、東部国境付近のバンバラ Bamburgh を攻撃する。リチャードはこれを撃退し(9月)、彼の第1回目の北部総監職は解かれた。



 Link: バンバラ城 Bamburgh Castle のサイト 北海に面している



【第1回スコットランド遠征】



1481年に入ると、本格的なスコットランド遠征の準備が開始された。
当初は、エドワード四世自身が総司令官として出陣する予定だった。3月には、遠征計画の検討のために、グロースター公リチャードがロンドンを訪問している。しかし、実際には国王は出陣せず、1481年末から1482年初めのスコットランド遠征(第1回)の指揮は、グロースター公とノーサンバランド伯に任せられた。



リチャードは、カーライル Carlisle のハドリアヌスの長城 Hadrian's Wall を修復し、国境守備隊の兵を募った。また、イングランド亡命中のスコットランド貴族ジェイムズ・ダグラス(第9代ダグラス伯,1455年に私権剥脱されていた) James Douglas, 9th Earl of Douglas と共に、スコットランド貴族の買収にあたったが、秘密交渉はうまくいかなかった。



1481年晩春には、ハワード卿ジョン(後の初代ノーフォーク公)が、フォース湾 the Firth of Forth (スコットランド南東部の北海の入り江)でスコットランド船の拿捕と破壊を行い、ブラックネス Blackness の港を焼いた。
続いて、夏に、国王が総司令官として軍を率いる予定だった。しかし、エドワード四世は出陣できなかった。税金の徴収(軍事費調達のため)に対する反発への対応のためと、健康上の理由によるらしい。



10月、リチャードは、ノッティンガム滞在中のエドワード四世を訪問し、年内に大規模な遠征を行うには時期が遅すぎる、ということで意見が一致したようだ。
その後、リチャードは前線に戻り、ベリック(べリック・アポン・トゥイード Berwick-upon-Tweed)  を包囲攻撃したが、陥落させることはできなかった。ベリックは国境沿いの城砦だが、1460年以来スコットランド軍に占領されていた。
冬の間、断続的に戦闘が続けられた。



【第2回スコットランド遠征】



1482年に入ると、再び遠征の準備が始められた。
5月下旬に、リチャードはスコットランド南西の国境付近を攻撃し、ダンフリーズ Dumfries と他の小さな町を焼いた。



この頃、スコットランド国王ジェイムズ三世の弟、オルバニィ公アレクサンダー・ステュアート Alexander Stewart, Duke of Albany (c. 1454-1485)がイングランドに亡命してきたことで、状勢はやや変化する。



オルバニィ公と弟のマー伯は、兄王ジェイムズ三世と対立し、1479年に陰謀の罪に問われて逮捕された。オルバニィ公は逃亡したが、マー伯ジョン・ステュアート John Stewart, Earl of Mar 注2 (1456/59-1479)は投獄中に死亡した。ジェイムズ三世の命で殺害されたと考えられている。
オルバニィ公はフランスに亡命していたが、スコットランド王位請求への支援を求め、イングランドに渡ってきたのだった。



6月11日、フォザリンゲイにおいて、エドワード四世とオルバニィ公との間で協定が結ばれた。リチャードもこの会談に加わっていた。エドワード四世がオルバニィ公のスコットランド王位請求を支援し、オルバニィ公が即位した際は、スコットランド領の一部と外交特権の若干をエドワード四世に引き渡すという条件であった。
翌日、リチャードは、再び、北部総監 Lieutenant-General of the North に任命された。
7月中旬には、リチャードを総司令官とし、オルバニィ公も加わった大規模な遠征軍(約2万人)がスコットランドに派遣された(第2回スコットランド遠征)。



イングランド軍は、まず国境沿いのベリックに向かった。城砦の包囲をスタンリー卿に任せ、軍の主力は北上した。ジェイムズ三世は、これを迎え撃とうと軍を率いて南下した。
しかし、イングランド軍がスコットランド軍と交戦する前に、ジェイムズ三世は、ローダー Lauder で、国王に反感を持つスコットランド貴族達の捕虜となってしまった(7月22日)。ジェイムズ三世は寵臣を殺され、自身はエディンバラ城に囚われた(その後、スコットランド貴族達は、国王を連れ、エディンバラ近くのハディントン  Haddington に移動した)。



7月末にはイングランド軍がエディンバラに入ったが、抵抗はなかった。



自国の国王を捕らえたスコットランド貴族達は、グロースター公に和平交渉を申し込んだ(8月2日)。彼らは、スコットランド王太子ジェイムズとエドワード四世の3女セシリィ・オブ・ヨーク(当時婚約していた)の婚姻履行を改めて申し出た。一方、リチャードは、べリックの城砦と(以前に支払われた)セシリィの持参金の返還を要求した。
8月4日、スコットランド側は、エドワード四世がセシリィ王女と王太子の婚姻を望まない場合は、彼女の持参金を年賦で全額返還すると申し出た。リチャードはこの条件に同意した。



一方、オルバニィ公は王位の要求を放棄し、ジェイムズ三世に自らの所領と地位の回復を約束させ、満足した。……翌1483年には再び私権剥脱され、イングランドと協定を結ぶことになるのだが。



リチャードは軍を引き揚げ、ベリックで軍の大半を解散した(8月12日)。これは、軍事費の増大を懸念したためと考えられる。イングランド国内では、遠征のための税負担に対する反発が、出陣前に既にかなり強くなっていたようだ。残った部隊によりベリック城砦の包囲が続けられ、8月24日に城砦は陥落した。



このベリックの奪還が大規模なスコットランド遠征のほとんど唯一の成果であり、遠征は失敗に終わった。
しかし、(一時的に)首都エディンバラを制圧下においたこと、スコットランドに対しイングランド軍の優位を示したこと、そして、国境の要衝(ベリック)を奪還したことで、エドワード四世は満足したようだ。ベリックの奪還は、その維持のために、更なる出費を必要とするものではあったが。
遠征の失敗は、主としてエドワード四世の外交上の失策と考えられ、グロースター公の戦功は評価された。



メアリ・オブ・ヨークの婚約

先日、エドワード四世の5女アンの婚約と結婚について書いた
他の娘達についても「成就しなかった縁談」と「成就した縁談」を追いかけてみようと思う。長女のエリザベス・オブ・ヨークの婚約事情は複雑なので、先に他の娘達について書いてみたい。



まずは、次女のメアリ・オブ・ヨーク(1467-1482)から。






1475年、メアリの姉エリザベス・オブ・ヨーク(1466-1503)が、フランス王太子(ドーファン, 後のシャルル八世)と婚約した。この時、万一エリザベスが結婚可能年齢前に死んだ場合は、メアリと結婚させることも決められた。そのため、エドワード四世は、その後しばらくの間メアリを婚約させなかった。
  >>エリザベス・オブ・ヨークの婚約と結婚 2



エドワード四世がメアリを婚約させたのは1481年である。相手はデンマークの王子だった。



当時のデンマーク王はクリスティアン一世。ノルウェー王・スウェーデン王を兼ねていた。彼には4男1女があったが、上の王子2人は夭折しており、存命の王子は2人だった。



  • ハンス(後のハンス王)(1455-1513, 在位1483-1513)

  • フレゼリク(後のフレゼリク一世)(1471-1533, 在位1523-1533)


メアリは弟王子のフレゼリクと婚約したらしい。Oxford DNB (Oxford Dictionary of National Biography) には、”contracted to Frederick of Denmark in 1481” と書かれている。
兄のハンスと婚約したと書かれていることもあるが、ハンスは1478年に、ザクセン選帝侯エルンストの長女クリスティーネと結婚しているから、違うだろう。



メアリは翌1482年5月に14歳で亡くなり、デンマーク王子との結婚は実現しなかった。
フレゼリクは1502年に、ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ツィツェロの長女アンナと結婚した。


最終更新日:2008.1.19

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‘ジェイン’・ショアの絵画

The Penance of Jane Shore in St Paul's Church



The Penance of Jane Shore in St Paul's Church



ウィリアム・ブレイク(William Blake)作
水彩画
c. 1793年



Tate Collection
↑ リンク先の画像をクリックすると大きな絵が見れます



中央の亜麻色の髪の女性がジェイン・ショア(エリザベス・ショア)。裸足で、左手に蝋燭を持っている。周りを警備兵に囲まれている。
画面右手には見物人達が描かれている。





エドワード四世の愛人であったエリザベス・ショア(‘ジェイン’・ショア)は、エドワード四世の死後(1483年)、"public penance (公の場での懺悔, 公開の改悛)" を命じられた。ロンドン市内の通りを、kirtle(アンダードレス)のみで、裸足で、ろうそくを持って歩かされたと伝えられている。
 参考記事 : エリザベス・ショア



ウィリアム・ブレイク(1757-1827)は英国の詩人・画家・彫版画家。


◇ウィリアム・ブレイク作の絵画




なお、シェイクスピアの『ヘンリー六世 第二部』では、グロースター公ハンフリー(ヘンリー五世の末弟)の2人目の妃エレノア・コバムの "public penance" が描かれている。



グロスター:
ああ、あのやわらかい、傷つきやすい素足で
固い石畳の道を歩くのは、さぞつらかろう。
かわいそうなエリナー、気位の高いおまえの心は、
卑しい市民どもに意地悪な目でじろじろ見られ、
恥辱をあざ笑われては、どんなにせつなかろう、
かつておまえが威風堂々街を練り歩いたとき、
その誇らしげな車にぞろぞろついてきた市民どもにだ。
あ、あれは!どうやらきたらしい。涙に汚れた目で
みじめなあれの姿をとくと見てやることにしよう。


グロスター公爵夫人エリナーが、裸足で白衣をまとい、燃えている蝋燭を手にして登場、続いてサー・ジョン・スタンレー、代官、役人たち登場。

第2幕第4場 小田島雄志訳



ブレイクの他にも、この題材で絵を描いた画家がいる。
スコットランドの歴史・肖像画家である Robert Scott Lauder (1803-1869) 作の油絵がある ↓



The Penance of Jane Shore (artnet.com 内)



この絵は、The Drambuie Collection(Edinburgh, Scotland)の1点だったが、2006年1月にオークションにかけられ、落札されたようだ。



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Author:秋津羽

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