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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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コンスタンス・オブ・カスティルはどこにいるのか? [レスター]

コンスタンス・オブ・カスティル Constance of Castile (1354-1394) は、カスティーリャ王ペドロ一世の次女で、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(ランカスター家の祖)の2人目の妃である。ジョン・オブ・ゴーントは彼女の権利によって、カスティーリャの王権を主張した。



コンスタンスは、1394年3月24日にレスター城で死去し、レスターの地に眠っている。ことは各種の記述が一致しているのだが、問題は正確な場所である。レスターのどこに葬られたのか。



今回、リチャード三世とは若干話題がずれるが、血縁者ということで、脱線をお許しいただきたい。
コンスタンス・オブ・カスティルの妹(ペドロ一世の三女)イザベル・オブ・カスティルは、ジョン・オブ・ゴーントの弟で初代ヨーク公のエドマンド・オブ・ラングリーと結婚した。2人の間の孫の1人が3代ヨーク公リチャード・プランタジネット―リチャード三世の父である。
つまり、リチャード三世にとって、曾祖母の実姉、曽祖父の義姉(兄の妻&妻の姉)にあたる。
 ヨーク家家系図





コンスタンスの埋葬場所を求めてWeb(英語サイト)をさまよってみたのだが、どうもはっきりしない。こんな感じ↓



  • St. Mary, Leicester, Leicestershire

  • St Mary's, Newark, Leicestershire

  • Newark Abbey, Leicester


Oxford DNB では St Mary Newarke, Leicester となっていた。



Newarke とな?


12世紀からあるレスター城付属の教会は、Church of St. Mary de Castro という(現存: 公式サイト)。ジョン・オブ・ゴーントと最初の妃ブランシュ・オブ・ランカスターの子供達のうち、夭折した者はここに埋葬されたようだ。
ちなみに、ジョン・オブ・ゴーントとブランシュ妃は、ロンドンのセント・ポール寺院(大聖堂)に埋葬されている。



そして、ランカスター公ヘンリー・オブ・グロウモント(ブランシュの父、ジョンの義父)が城の南側(the Newarke と呼ばれる区域)に建てはじめ、ジョンが完成させた(らしい)教会が、Collegiate Church of the Annunciation of St. Mary である。Church of St. Mary of the Annunciation (in Newarke) と書かれていることもある。元々は、代々のランカスター公の墓所にしようとして建てられた教会である。
中世レスターの地図で、Newarke College Church と書かれているのがこの教会と思われる。
1722年のレスターの地図はこちら (上の中世の地図よりも広い範囲の地図)



現在の地図でいうと、キャッスル・パークの南にあるDe Montfort University の敷地内(北側)に相当する。
 レスター史跡地図 powered by Google Maps API



Newark の St. Mary というと、やはり、Collegiate Church of the Annunciation of St. Mary のことと思われる。……だが、この教会は現存しない。
一時は大聖堂 cathedral への昇格の話まで出るほどの繁栄を誇り、ヘンリー八世の宗教改革をも生き延びた。ヘンリー八世の父、ヘンリー七世(テューダー朝開祖)は、ランカスター家の後継を名乗って王位に就いたため、ランカスター家に縁の深い教会を破壊するのは気が進まなかったらしい。しかし、ヘンリー八世が没しエドワード六世治世になると、聖職者達は解散させられ(1548年)、まもなく教会も壊された。



現在も形を留めているのは、"the Newarke"の外壁の一部(門)である Magazine Gateway だけである。Trinity Hospital が motte の南に残っているが、18-19世紀の火事と改築を経て、中世のものは、東端の礼拝堂 chapel の一部だけのようだ。
この他、De Montfort University の Hawthorn Building の基部 / 地下に、Collegiate Church の跡があるそうだ。
 【Link】 De Montfort Universityの地図



教会、壊されたのか?もしかして、埋葬場所は分からない?……どこかにちゃんと移葬してもらえたのなら良いのだけれど。
くみぞうさーん、Mlle Cさーん、どなたか何かご存知ありませんか~?



 【Link】



  • レスター城周辺1 (Carpe diem のpsyさん):レスターに旅行された際の記事をお書きになってます。Magazine Gatewayや、Trinity Hospital、De Montfort University の Hawthorn Building(Collegiate Church of the Annunciation of St. Maryの跡地に建っている)の写真あり。

  • レスター城周辺2 (Carpe diem のpsyさん):Church of St Mary de Castroの写真あり。



最終更新日:2008.9.13

Copyright(C)since2005 白い猪亭


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レスター城址 1 [レスター]

リカーディアン的レスター案内 2. レスター城址 1



現在、レスター城の跡地は Castle Park となっている。
最初の城の土塁(motte)や、城の大広間(現在、キャッスル・ホールと呼ばれている)、城付属の教会 Church of St. Mary de Castro 等が残っている。キャッスル・ホールの南側の庭の下には、John of Gaunt's Cellar (ジョン・オブ・ゴーントの地下室/食糧貯蔵室)と呼ばれる地下室がある。



何故、ここにジョン・オブ・ゴーント?と思ったのだが、彼はランカスター公であると同時に、レスター伯でもあったのだった(ダービー伯、リンカン伯等の称号もある)。すっかり失念していた。



まず、レスターとレスター城の簡単な歴史を書いておきたい。




《ローマ時代~ノルマン・コンクェスト》


AD50年頃にはローマ軍がレスターに駐屯地を築いていた。ローマ人撤退後は、アングロ・サクソン人がこの地を支配していたが、9世紀にはデーン人(ヴァイキング)に征服され、デーンロー(Danelaw, デーン人の法・慣習の行われる地)の一部となった。



10世紀に入ると、アングロ・サクソンの王達はデーンローの奪回に乗り出し、デーン人を服属させたが、10世紀末には北欧からの大規模なイングランド侵入が再開された。1016年にはデンマーク王子クヌート(1000‐35)がイングランドを征服し国王となる(デーン王朝)。彼はその後、デンマーク王兼ノルウェー王となり、スウェーデンの一部をも支配し、北海帝国を樹立した。



クヌートの死後、帝国は瓦解し、1042年にはアングロ・サクソン系のエドワード証聖王(c. 1004‐66)が王位に就く。証聖王は嗣子なくして没し、ウェセックス伯ハロルド(王妃の弟)、王の遠縁にあたるノルマンディー公ギヨーム、ノルウェー王ハーラル三世の3者が、王位をめぐって争った。ハロルドはハーラル三世に勝利したが(スタンフォード・ブリッジの戦)、ノルマンディー公ギヨームに敗れ(ヘイスティングズの戦)、ギヨームはイングランド王ウィリアム一世として戴冠する(ノルマン・コンクェスト)。



《11世紀後半後期~13世紀中期》



Model of a motte and bailey

"motte and bailey" の模型
Original Photo by Urban under GFDL



レスターに最初の城が築かれたのは、1060年代末、ノルマン・コンクェストの後まもなくのことである。ウィリアム一世配下の Hugh de Grentmesnil が王の命により築いたとされる。モット・アンド・ベーリー motte and bailey 型注1の城であった。現在も Castle Park 内に motte(土塁)が残っている(高さ9m、基部の直径30.5m)。但し、本来はもっと高さがあった。



レスター城は、Hugh de Grentmesnil の死後、初代レスター伯 Robert de Beaumont に与えられた。城主とその家族は bailey 内の Hall とそこに付属する室を居館としていたらしい。12世紀初期~中期に、2代レスター伯 Robert de Beaumont は、城壁を石造りにし、Hall や教会も石造りに替えられた。
その後も城主達により、建物の拡張・造築が行われた。



5代レスター伯(4代伯の甥)および6代レスター伯は、同名の父子シモン・ド・モンフォール Simon de Montfort である。父の5代伯(c. 1150-1218)はアルビジョア十字軍の指揮官として知られるフランス貴族で、"シモン・ド・モンフォールの乱"で有名なのは息子の6代伯(1208‐65)。なお、6代伯の妻は、ジョン王の末子で、ヘンリー3世の妹のエレノア・オブ・イングランドである。6代伯の敗死後、伯爵位は没収された(1265年)。



《13世紀中期~15世紀》



同年、ヘンリー三世(1216-1272)の次男エドマンド・"クラウチバック" Edmund "Crouchback" (1245‐96)がレスター伯(Second Creation)に叙された(1267年には、初代ランカスター伯に叙される)。これにより、レスター伯位は王族のものとなる。



ランカスター伯兼レスター伯位は、エドマンドの長男トマス(2代伯)、次男ヘンリー・オブ・ランカスター(3代伯)を経て、3代伯の長男ダービー伯ヘンリーに受継がれる。4代伯ヘンリー・オブ・グロウモント Henry of Grosmont(c. 1303-1361)である。1351年に彼はランカスター公に叙された。
ランカスター公叙爵後まもなく、ヘンリー・オブ・グロウモントは、レスター城の拡張に着手した。この計画には、3代伯ヘンリー・オブ・ランカスターが1331年に建てた施療院 Hospital (教会および宿坊が一体となっていた)の拡張等が含まれていたが、要となるのは、Hospital (Trinity Hospital)に隣接して、代々の公爵の墓所となる大きな教会(the Collegiate Church of the Annunciation of St. Mary注2)を建築することであった。城の南側一帯(後に the "new-work" ないし "The Newarke" と呼ばれる)を壁で囲まれた宗教区にしようとしたのである。しかし、彼は完成を待たずに没し、計画は後継者にゆだねられることとなった。だが、その後ランカスター公(達)がこの教会に葬られることはなかった。
 ヘンリー・オブ・グロウモントの次女ブランシュと、その夫ジョン・オブ・ゴーント(ランカスター公)は、ロンドンのセント・ポール寺院(大聖堂)に埋葬されている。



ランカスター公ヘンリー・オブ・グロウモントには、嫡出の男子がなく、2人の息女(長女モード、次女ブランシュ)が共同女子相続者(coheiress)であった。公の死去の翌年(1362)には、長女モードも亡くなり、次女のブランシュ(1345-1369)が唯一の女子相続人となった。
ブランシュ・オブ・ランカスターは、エドワード三世の四男(黒太子の弟)のジョン・オブ・ゴーント John of Gaunt(1340-1399)と結婚しており、ジョンは"妻の権利によって(jure uxoris)"ランカスター公爵位と、ランカスター公の広大な所領を相続した(レスター伯、ダービー伯、リンカン伯等の爵位も相続した)。
この2人の嫡男(四男だが、兄達は夭折)が後のヘンリー四世(1367-1413, 在位1399-1413)である。



ヘンリー四世とその後継者達はロンドンに住んだが、15世紀半ばまでは、レスター城と the Newarke は王家の式典の際に用いられた。城壁等の改築も行われている。しかし、ばら戦争が起こり、ヨーク朝になると、王家による使用はなくなった。リチャード三世がボズワースの戦の前にレスターに滞在した時も、城には滞在せず一般の Inn に宿泊している。



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