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英国史上まれに見る極悪人として名高いリチャード三世の真の人物像を探ることを目的としています。
シェイクスピアの描いたリチャード三世以外のリチャード三世像があることを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
2012年9月12日、レスターのグレイフライヤーズ修道院跡からリチャード三世の遺骨が発掘されました!(2013年2月4日に調査結果が発表されました)

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ヘンリー・テューダーの王位継承権主張 1

ヘンリー・テューダー(後のヘンリー七世)がイングランドの王位継承を主張した根拠について、大雑把にまとめてみたい。とりあえず、時系列順に。



  1. ヘンリー六世の母キャサリン・オブ・ヴァロア(フランス王女、イングランド王太后)と、オーウェン・テューダーの間に子供達が生まれた(長男がエドマンド、次男がジャスパー)

  2. ヘンリー六世が異父弟2人(エドマンドとジャスパー)に爵位を与えた(リッチモンド伯とペンブルク伯)

  3. リッチモンド伯エドマンド・テューダーが、ランカスター家傍系マーガレット・ボーフォート(初代サマセット公の息女)と結婚
    →エドマンドの死後、ヘンリー・テューダーが生まれた(薔薇戦争開始の翌年)

  4. ランカスター本家の後継者は全滅

  5. 薔薇戦争の間に、傍系のボーフォート家の男系男子も全滅

  6. ヘンリー・テューダーは、母方のボーフォート家の後継者として、さらにランカスター家の後継者として名乗りを上げた


こうしてヘンリー・テューダーはイングランド王位を請求したわけだが、実はいささか論理の飛躍がある。というか、彼の王位継承権には問題がある



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キャサリン・オブ・ヴァロアの再婚? 2

先日の貴賤相婚(morganatic marriage)の記事にLeiさんからいただいたコメントで、キャサリン・オブ・ヴァロア Catherine of Valois についての引用文が気になった。



もっとも不思議なのはTudorsです。
Marriages have never been considered morganatic in any part of the United Kingdom (But see the Oxford Dictionary of National Biography entry for the French-born Queen Consort of England Catherine of Valois which characterizes her second marriage to Owen Tudor as morganatic).

ならば、どうして、Henry Tudorが王位継承を主張出来たのかなぁ・・・と。無理が通れば道理がひっこむ、みたいな感じでしょうかねぇ?



キャサリン・オブ・ヴァロアとオーウェン・テューダーの結婚が morganatic?そうなの?
「Oxford DNB の entry を見よ」とのことなので、確認してみた。ちょうど手元に、Oxford DNB の Catherine of Valois の項目があったので(汗)
確かに morganatic marriage と書かれている。





Nevertheless, in spite of the council's precautions, some time between 1428 and 1432 Catherine did contract a morganatic marriage, though this only became known after her death. Her new husband was a young Welsh squire, Owen Tudor . Where and when they first met is unknown.


評議会の警戒にも関わらず、1428年から1432年の間に、キャサリンは morganatic marriage をした。もっとも、この事が(広く)知られたのは彼女の死後だった。彼女の新しい夫は、若いウェールズ人のスクワイア、オーウェン・テューダーだった。いつどこで彼らが知り合ったのかは不明である。(秋津羽 訳)



注:1428年に、国王と評議会の承認がなければ王太后(前王ヘンリー五世の妃、ヘンリー六世の母)キャサリンの再婚を禁じる、という法令が議会で可決されていた。キャサリンが、初代サマセット伯ジョン・ボーフォートの4男エドマンド・ボーフォート(後に2代サマセット公)との結婚を望んでおり、評議会がそれを阻止しようとしたという説がある。



"this only became known after her death." という記述にえー?と思ったのだが(なお、キャサリンの死去は1437年)、その少し後に次のように書かれていた。



Within court circles Catherine's second marriage was known by May 1432 when Owen Tudor was given the rights of an Englishman, to protect him from earlier anti-alien legislation; in March 1434 Catherine openly granted him various favours on her Flintshire lands.


宮廷ではキャサリンの2度目の結婚は1432年5月までに知られていた。同年5月、オーウェン・テューダーにはイングランド人の権利が与えられ、これにより彼は外国人に対する法令を免れることとなった。1434年3月、キャサリンは自分のFlintshireの領地において、彼に公然と様々な恩恵を与えた。(秋津羽 訳)


この項の筆者はMichael Jones。この方だろうか?



個人的な印象だが、"morganatic"という言葉は、法的な"morganatic marriage"の意味で使われている場合と、もっと広義に"unequal marriage"(身分違いの結婚)の意味で使われている場合があるように思う。



キャサリン・オブ・ヴァロアとオーウェン・テューダーの場合、"unequal"なのは確かだが、ドイツ語圏で行われていた(狭義の)"morganatic marriage"とは異なるのではないだろうか?
彼らの「結婚」に関して問題なのは、秘密結婚 clandestine marriage だったこと、正式に結婚した(教会に認められた)証拠がないことだろう。彼らが結婚したことを示す"当時の"文書はない筈である。



以前にも書いた(キャサリン・オブ・ヴァロアの再婚?)が、2人の孫にあたるヘンリー七世は、キャサリンの墓に「オーウェン・テューダーと結婚した」旨の銘を加えた。父(エドマンド・テューダー)が庶子でないことを示すためだったと言われている。



ヘンリー・テューダー(ヘンリー七世)の王位継承権主張については、別に書きたい。
まさしく無理を通したんですよ、ええ。


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貴賤相婚 morganatic marriage

エドワード四世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚に関して、以前から疑問に思っていることがある。
この結婚は、貴賤相婚として扱われてもおかしくないような気がするが、そうなってはいない。イングランドでは身分違いの結婚をした場合でも(制度上は)制約は設けられなかったのだろうか。



貴賤相婚(貴賤結婚, morganatic marriage)とは、王族・皇族(君主の一族)・貴族の男性と身分の低い女性との間の結婚で、妻子に位階・称号・財産が継承できないという条件のついた結婚のことである(稀に男女の身分が逆の場合もある)。
この場合の身分の低い女性とは王族・皇族・貴族以外のことだが、王族・皇族の男性の場合、下級貴族の女性との結婚も貴賤相婚となる場合があった。




比較的新しい例では、フランツ・フェルディナント大公(オーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者)とボヘミアの伯女ゾフィー・ホテクとの結婚がそうだ。
 >>フランツ・フェルディナント大公の結婚について



エリザベス・ウッドヴィル(c.1437-1492)の父リチャード・ウッドヴィル Richard Woodville (後に初代リヴァーズ伯)は、1448年にヘンリー六世によりリヴァーズ男爵に叙された。 だから、エリザベスは、一応(新興の)下級貴族の息女ということになるが、もともとはランカスター派のジェントリの出身である。
なお、エリザベスの母は、サン・ポール伯の息女ジャクェッタ・オブ・ルクセンブルク Jacquetta of Luxembourg ―ヘンリー五世の弟ベドフォード公ジョンの未亡人―である。
この両親の結婚(秘密結婚だった)も身分違いということで問題になった。



エリザベスの最初の夫サー・ジョン・グレイ・オブ・グロウビー Sir John Grey of Groby は、ランカスター派のナイトで、フェラーズ卿エドワード・グレイとレディ・フェラーズ(フェラーズ男爵)の嫡男だった。2人は1452年頃に結婚し、2人の息子(後のドーセット侯トマス・グレイとサー・リチャード・グレイ)が生まれた。サー・ジョンは、ばら戦争の第2次セント・オールバンズの戦(1461年2月)で戦死し、エリザベスは未亡人となった。
翌3月のタウトンの戦でエドワード四世(1442-1483)が勝利をおさめ、国王に即位した(戴冠式が行われたのは6月)。



エリザベスとエドワード四世のなれそめとしてよく言われるのは、エリザベスが、亡き夫の没収された所領の回復を国王に嘆願したというものだが、私権剥脱されたわけではないようだ。
サー・ジョンの所領やエリザベスの寡婦給与を巡り、エリザベスと義母レディ・フェラーズ(サー・ジョンの父エドワード・グレイの没後、サー・ジョン・バウチャーと再婚していた)の間で訴訟になった、というのが正確なところらしい。その件で、エリザベスがヘイスティングズ卿ウィリアムを介し、エドワード四世に訴えたようだ。



エドワード四世とエリザベス・ウッドヴィルは、1464年に、ノーサンプトンシャーのグラフトン・リージス Grafton Regis で秘密結婚(clandestine marriage, 結婚の公開性に関わる部分を欠く結婚)をした。5月1日という説が一般的だ。エリザベスの母ジャクェッタと司祭の他は、2、3人の立会人がいただけだと伝えられている。



この結婚は、しばらく公表されなかった。"キングメイカー"ウォーリック伯リチャード・ネヴィルは、エドワード四世と、ルイ十一世の義妹ボナ・ディ・サヴォイアとの結婚交渉を進めていた。



同年9月の国王評議会においてボナとの結婚に関する議題が出て、エドワード四世はエリザベス・ウッドヴィルとの秘密結婚を隠しておけなくなった。寝耳に水の出来事に、評議員達が驚愕し、激怒したのは言うまでもない。
何の相談もなく勝手に結婚したことを措いても、ランカスター派のジェントリの家系という出自が王妃としてふさわしくないのみならず、国王より5つほど年上の未亡人で、2人の子持ち、財産もなく、さらには多くの弟妹がいて、それぞれにふさわしい地位を与えなければならなかったからだ(実際、弟妹たちの結婚により、あちこちで確執が生じた)。



しかし、済んでしまったことは致し方もなく、9月29日の聖ミカエルの祝日に、エリザベスは宮廷で正式に王妃として披露された。
翌1465年5月、エリザベスは王妃として戴冠した。



エドワード四世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚は、様々な物議をかもしたとはいえ、貴賤相婚とはされていない。エドワード四世没後、子供達の継承権に関して問題とされたのは妃の身分ではなく、秘密結婚をしたこと、そして、その結婚が本当に有効なものだったのかどうか(子供達が嫡出か否か)である。



他のイングランド王の場合も、相手が王族・貴族でなくとも(または、下級貴族でも)正式に婚姻した場合は、子供達に王子・王女の身分が認められているように思う。
貴賤相婚はもともとドイツ語圏で生まれた制度らしいが、イングランドでは適用されなかったのだろうか?(なお、18世紀にハノーヴァー朝になると、イングランドの王族は血統的にほぼドイツ人となり、国王はドイツ系の"身分違いでない"配偶者を迎えている) 君主になった後と、君主になる前(継承者)との違いも多少は関係しているのだろうか。





―フランツ・フェルディナント大公の結婚―



フランツ・フェルディナント大公(1863-1914)は、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(皇后はエリーザベト)の甥で、皇太子ルドルフの死後、皇位継承者に指名されていた。



他国の王家、もしくは、ハプスブルク家との婚姻しか許されていなかったにも関わらず、大公は、ボヘミアの伯女で、ハプスブルク家のフリードリヒ大公妃の侍女だったゾフィー・ホテクとの結婚を望んだ。激怒した皇帝との数年にわたる諍いの末、大公とゾフィーとの結婚は認めるが貴賤相婚とする、ということで決着がつく。
結婚式にはハプスブルク家の人間は出席せず、結婚後もゾフィーは(ホーヘンベルク公爵夫人の称号を与えられたものの)大公妃として扱われることなく、皇帝への謁見も許されなかった。



1914年6月28日、フランツ・フェルディナント大公は、夫人を伴い、陸軍大演習総監のためサラエヴォを訪問する。事前に不穏な情報がもたらされていたにも関わらず、大公がサラエヴォ訪問を強行したのは、通常は公式行事に同席の許されない夫人が同席できる機会だったからだとも言われている。この日は偶然にも夫妻の14回目の結婚記念日だった。
大公夫妻はオープン・カーで移動中、セルビア人学生に射殺(暗殺)される。大公の最後の言葉は「ゾフィー、死んではいけない、子供たちのために生きておくれ」だったと伝えられる。



サラエヴォで夫妻が暗殺され、その葬儀が粗略であったことが国民の同情を集め、第1次世界大戦の引き金となる。
夫人はハプスブルク家代々の墓所に入れまいと考えていた大公は、自分たちの霊廟を用意していた。夫妻は世界遺産に登録されているヴァッハウ渓谷の西、アルトシュテッテン城の霊廟に眠っている。





― フランツ・フェルディナント大公夫妻関連 本・DVD―



オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録
フランツ・フェルディナント (著)
ISBN: 4061597256; 講談社学術文庫; 882円(税込); 2005年
29歳のフランツ・フェルディナント大公が世界旅行をした時の日記(日本に関する部分の翻訳)。
原題"Tagebuch meiner Reise um die Erde. 1892-1893"(Wien : Alfred Holder 1895/96)の抄訳
ハプスブルク家の女たち
江村 洋 (著)
ISBN: 406149151 ; 講談社現代新書; 735円(税込); 1993年
ハプスブルク家の女性達に焦点を当てた、一般向けの歴史読み物。
『第7章 命を賭けた「帝冠と結婚」』は、フランツ・フェルディナント大公と妃ゾフィー・ホテクについて書かれている。


NHKスペシャル 映像の世紀 第1集 20世紀の幕開け
NHKエンタープライズ; 7,140 円(税込); 2005年
1995年NHKで放送のドキュメンタリー番組「映像の世紀」のDVD。世界を支配していた王朝国家が最後を迎える19世紀末から、第一次世界大戦まで。
サラエヴォ事件に関する記録も。


最終更新日:2010.9.30



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